2019年1月24日

世俗知について

 ある知的(ふさ)はその房に属する要素との共通性の多さと、類似性によって距離がはかられる。この房の一規則として例えば真偽判断の精度といった命題があり、或る賢さの定義となる。この意味で賢愚はある規則を含む房との距離でしかない。
 尊卑は道徳知について同じ規則ではかられる。この房が知性を決める基本的な情報の束だ。
 全知の房が世俗知を含むなら、無理解の混沌を程度こそあれ含む通俗的理解の房をもつことが必要となる。しかし、賢さの一部としての世俗知は、単なる通俗性或いは愚かさそのものとは異なる知性の部分である。いいかえると、知性という全体集合に対して、賢さという集合の一部としての世俗知という部分集合は、単なる愚かさという部分集合とは異なる集合である。愚かさは知性にとって賢さとは異なる部分集合であり、かつ、愚かさは多分に誤解や無知という要素を含む。 賢さは有知の要素を含む。また無知自体が賢さではないということがもし真なら、無知の知とは有知の要素である。
=:等しい
⊇:含む
∋:要素として含む
¬:でない、否定
∨:または
全体集合:知性={賢さ、世俗知、愚かさ、誤解、無知、有知}
知性⊇((賢さ(∋有知∋無知の知)⊇世俗知)¬(愚かさ∋(誤解∨無知)))
もし世俗知が愚かさ自体ではない、ということ、そして世俗知は賢さに含まれるということが真なら、より賢さの知的房に属したいと願う人は愚かさ、或いは通俗性を社会学的研究対象としてのみ認識すべきで、決して当人が愚かであるべきではない。つまり同時に賢さでもある様な、世俗知の範囲内において、世間を見聞きし分析する必要がある。愚かさ自体を知る事はできないにせよ、愚かさがどんな誤解や無知の型をもつ可能性が高いかなど、世俗知の範囲内で俗事に通じているのは確率的予想の可能性を若干高めるのだろう。