2010年10月28日

姦淫と場所倫理

稔性やもっと端的には繁殖率の高さは、人類の段では「再生産率」と言えるが、異系配偶の実のききめはそれ已。副産物でこの値は経済活動となって示される。

 総生産より総所得の方がより経済活動の純粋さと消費生態を示すなら、再生産率自身の象徴は現段階で総所得のみに絞られる。かつて不生産階級とされた商人層が之。故もし再生産率のみが、裕に早稲の傾向だけがこの人類生態内での目安とすると、ある地域の場所倫理になぜ異系配偶の推し進めへの違った程度があるかは明らか。
 つまり商習慣の社会適応度が高い程その場の早稲への誘因は高まる。この法則は過剰稔性の目安の一つだろう売春の有無でより明白に示される様に思う。この活動のある地帯は、必ず異系配偶への極度の誘因がある。多くの宗教や道徳理説で売春、つまり婚姻関係にない異性との姦淫の禁忌が説かれるのは、その倫理感覚をうみだした集団が過剰稔性を不適応としていたから。

 私はなぜ倭人、及びアジア人の中の幾らかが売春への罪意識をもたないかを長年疑問に思っていた。特に、この傾向は日本とよばれる島国で関西地方と東京都という一帯で甚だしい。それらに共通しているのは人口過密の地域な事、及び天皇の末裔な公家の土着率が他の地域より高い事らしかった。なお他の倭人地方都市でも全く売春行動がない、といった例は殆ど見受けられない程かれらは最低でも文化素面で、売春への定着性がある。更にこれは関西以南で甚だしく、地域民俗の厳格さに伴う幾らかの例外はあるが北へ行くに従って幾分減少するが、少なくなる日照時間とそれに伴う湿気の多さに逆比例する様どこでも山陰地方の民俗では凄まじい習慣の継続強度を示す。
 一般に、財産家の地位に比例してその多妻指向が現れるのは哺乳類的でもあり、彼らの属した集団での倫理感が他の標準的人口密度や生態行動の地域とずれる事へは特段の疑問符もつかないだろうが、私に分からなかったのはなぜ彼らが金銭などを介した明らかに姦淫の習慣を煽る売春の行いすら否定しないのかだった。
 神道とよばれる彼らの祖先崇拝の信教では、姦淫ばかりか売春への禁忌事項すらない。だからあなた方であれ日本の一部の地帯へ観察のため侵入してみれば、そこで生息している人種が罪意識を全くもたない侭、かなりの期間に渡って売春行動へ自己適応や家畜化しているのがみてとれる。京都という関西地方の中核都市では舞妓や芸妓あるいは芸者とよばれるこの種の特殊適応した品種がなお増産されている。かつて江戸とよばれ、現状では東京と名をかえた都心部の一部地域ではこれと似た光景で、売春店の看板が辺り中に掲げられた侭で人々は何事もないかの如く暮らしている。なお中間地帯の名古屋も同様。東京で多い男娼はホストとよばれ、それらの活劇を青少年以下も観る時間帯に全国区でテレビ放映する民族は、私は倭人しかしらない。同様に税を収益源とした公益のための国営放送が、前述の芸者要は売春婦を主人公にしたテレビドラマを平気で毎朝流していたところを私は見たことがある。因みにどちらの事例も東京に存在するテレビ局が番組製作し放映。
 社会で暮らす倭人らに発狂している風はなく、真実、彼らの中には売春への罪意識が殆どないのだ。
 彼らに理性がないのではなく、彼らの属する社会環境への適応の為に、他の人類の属した地域とは全く違った種類の理性が彼らの中では正当化されているのだ。彼らに何の宗教心もない訳ではないらしいことが、その地域へも神道式の社が存在しているので分かる。但しほかの宗教が及んでいるとはとても考えづらいが。

「姦淫は悪である」という命題が、文明化された国民に理解されないことはないだろう。それは理性をもつ生物ならば、どの形にせよ窃盗が両性の尊厳を侵す限りでそうなのだ。従って純潔が道徳と説かれる理由も、文明化された市民が婚姻前の異性を不当に占拠しない為に設けられる自己規範にある。
 仮に不倫が上述の歪んだ地域でどういうわけか正当化されているにせよ、その地帯のかれらにとってすら家畜化された人格を婚姻の為の対象としない範囲でに限ってなのは違いなく、いうなれば彼らは人口過密による抑圧からの異常性行動と擬似多妻制の両立を倒錯した習性、要するに売春の自己目的化で果たしている醜悪の習慣に染まった人なのである。事実上、異性の人格を否定し奴隷化しており、それを通して自らの人格も全く尊敬できない悪辣な程度に貶しめているのだが。彼ら近代化したと言い張る倭人の法律にはたしかに売春を裁く風の文面はあるが、神道の影響下にある検察官の劣った理性のため長らく空文化している。その為に彼らの倭社会一般も、世界から非難されて然るべき性風紀面でのはっきりとした悪徳を偶然でなく、繰り返し示すのだ。

 彼らの悪さは彼ら自身の中では永遠に自覚できない。それは場所倫理学上も論証できよう。場所らしさがそこでの適応行動への第一誘因なら、京都や東京都の様な異常に過密化した都市への定着にはそれらの悪業を「種の利益の為に」続けるしかないか、最低でもそうすべきなのだから。媒体を通した間接的観察で悪習をどうとろうと、必ず彼ら倭人には理性の反面教育という効果だけが確かめ得る。都心化された醜悪な倭人は現実に地獄沙汰を誇示するべきなのである。さもなければ死を。
 結局、人類が大部分で純潔を実現する為には人口の分散と、富の固い定常的偏りが起きない国家体制が必要だろう。そしてこのどちらにも反している限り倭人にみられる如き倒錯、それに伴う過剰稔性の害な丈の奨励は止まない。且つ、この商業への過度の集約はその場の形質を早稲化する傾向の為に世代を通してそうでない民族でより理性の発達、つまり大脳新皮質の上乗せを抑えこむ。結果としてこの特定民族は社会間や文明間の競争の為に消滅か編入されて大勢を失う。その中途では悪評に伴う醜行での刑罰と現世を含む監獄の常連客の身だろう。