2024年2月19日

思想史の教育可能さと思索の教育不可能かもしれなさの別

「哲学は、それが歴史的認識(引用者注、≒思想史)でない限り決して学習できるものではない。哲学では理性に関する事柄について精々、知恵を友愛する様に深く考える(philosophieren)事が学べるだけである。」
――カント
『純粋理性批判』865
 フランスでは「哲学」を科目として教育している様ですが、カントが言う様、文献や講演などの客観的知識の体系である「思想史」以外の、自らの思想を生み出すべく自力で考える「思索」部分では、教育者自身には指導不可能とみる向きもあります。
墳せずんば啓せず、悱せずんば発せず。
――孔子
『論語』述而第七、八

現代語訳の例:
先師がいわれた。――
「私は、教えを乞う者が、先ず自分で道理を考え、その理解に苦しんで歯がみをするほどにならなければ、解決の糸口をつけてやらない。また、説明に苦しんで口をゆがめるほどにならなければ、表現の手引を与えてやらない。むろん私は、道理の一隅ぐらいは示してやることもある。しかし、その一隅から、あとの三隅を自分で研究するようでなくては、二度とくりかえして教えようとは思わない。」
(下村湖人『現代訳論語』)