あまりに難しい課題を解くには、人の人生時間はいつも少しばかり足りない。問題の設定レベルを本の少し落としさえすればもっと楽になるのに、つい最高の成果をあげようと、無理をしてしまう。
僕にとって色々なできごとを思い出し書いてみることはこれにあたることしばしばだ。といっても自分は元来絵描きで、作品を仕上げるのには熟達している。必ずといえるほど完成させられはするのだけど、もともとかなり苦労していた。それは10代の頃だ。
大体、描いていて無限に描けそうに感じるので絵はしあがりえないとおもっていた。高校の美術教師の磯上 先生が、いつか絵の完成させかたがわかると言っていて、高校生の自分はそれが本当か根本原理から疑わしかったが、今となっては意味がわかる。あるコツがあって、それをつかみさえすれば作品にするとはなんなのかがわかるらしい。
僕にとって色々なできごとを思い出し書いてみることはこれにあたることしばしばだ。といっても自分は元来絵描きで、作品を仕上げるのには熟達している。必ずといえるほど完成させられはするのだけど、もともとかなり苦労していた。それは10代の頃だ。
大体、描いていて無限に描けそうに感じるので絵はしあがりえないとおもっていた。高校の美術教師の磯上 先生が、いつか絵の完成させかたがわかると言っていて、高校生の自分はそれが本当か根本原理から疑わしかったが、今となっては意味がわかる。あるコツがあって、それをつかみさえすれば作品にするとはなんなのかがわかるらしい。
このばあい、僕はミキさんという人の愛すべき性質についてすべて書きたい。しかしそれは不可能だ。なにしろ彼女の愛らしさは、僕がしるかぎり無限に属し、そもそも人類に把握できるもの自体ではない。なら、部分だけきりとってスナップ写真のよう肖像画をつくるしかない。こういった作業なら僕はすこぶる慣れているのでうまくやるだろう。昔の絵描きは肖像画で生計をたてていた時代もあった。今の僕はそんなことはないけれど、ひとついえることは、単に愛すべき人の横顔をこの星の記憶として永久にとどめるつもりなら、それは自分が適任だろうとの人選は確かだ。というか、ほかのだれかが立候補しても、完璧な精度で僕が勝利するのはまちがいない。かなしくも、僕は無名の画家だがまた同時に、この時代を代理する巨匠でもあるからだ。それどころか、彼女を愛していることにかけては至高の自信がある。却ってそのことがし損じる原因にならぬよう、オペには細心の注意を払わねばならない。私心を挟むと解剖の一部に同情が入って、彼女を客観的に描出できなくなるかもしれない。でも自分はきっとうまくやるだろう、最後まで体力と気力が続きさえすれば。
今までも実は、何人か似た形で肖像画を描いたことがあり、今回の随筆は文書の形だから特殊だとはいえ、コツといってほとんど同じはずだ。要は彼女の本質を浮かび上がらせ、あとは絵全体の完成度を歴史的な次元へおしあげればいい。
話は少しいり乱れる。自分の気まぐれだ。でも重要な気まぐれのはずだ。
僕は今現在、恋をしているふしがある。でも、それがどういった結末を呼ぶか定かではないにせよ、自分すら疑わしくなるにせよ、ある必然性もある。僕はかんがえうるかぎり最も落ち込んでいた。それは、誰より愛していた人に裏切られた様に感じたからだ。そこで、別の女性が僕に話しかけた。その人の名はミューデという。昔、アメーバ・ピグ史として『政治広場史』を書いたけど、そこに出てくる人でもあるから長い期間このブログをよんだひとびとの中には記憶にあるひともいるかもしれない。まさか自分がミューデに完全に恋心をもつとはそこまで思いもよらなかった。いわゆる、弱ったときとか、失恋した瞬間に優しくされると弱いという理論で説明のつく心の動きでもあるから、僕がある種の女々しさを実はかかえていたのかもしれない。解釈のしかたによっては、むしろミキの居ぬまの洗濯で、おそらくよくない意味でだろうけどオスらしいのかもしれないが、どちらにせよ、僕としては意外だった。
ツイッターでしばらく前、僕をフォローしてきたシュウジ・ナカムラという人がいた。このひとは最近、50何歳らしいけど、「一度も恋愛したことがない」と書いていて、「今後の人生では恋愛でもして過ごそうと思う」、ともいっていた様子だった。僕は色々これには感じるところがあった。
まず、恋愛というのは、僕のしるかぎり捨て身のものなので慣れていないと即死しやすい。僕は色々鍛えられた。ふりかえると大体小学生くらいから、いまの今まで。猛者とはいわないまでも、現役戦士ではある。勿論謙遜している。無論ひとによるし断言できないが、50すぎてから一度も立ったことのない決死の戦場にきて、いきなり特訓なくなにかできるだろうか僕には疑わしいが、彼はおそらく本当にその苛烈すぎる過酷さをなにもしらないのだろう。しぬほど傷つき、実際いま自分がそうであるよう心が復帰不能にみえる致命傷を受け、またかけがえなくひとを愛しているがゆえたましいを完全に引き裂かれながらも、恋焦がれるがゆえ、拷問より深く懊悩する経験をあまたした人にとって、それがもたらす快楽をこえた生きている充実感とひきかえに人生の本体が燃やされることを覚悟しない者が、気軽に「恋愛でもしてすごそうと思う」といってやれる芸当では全然ないのは、ほとんどの事例で確かなことなのだ。彼の覚悟があって、才能があればすぐできることかもしれないし、他方、疑似恋愛を職業にする人々のよう本気さが薄ければ、ひどく傷つけ合う恐れももっと低いかもしれない。ただしその分、虎穴にいらずんば虎子を得ずというが恋愛とはなにかを深く知ることは、ずっと難しくなるはずでもある。ある意味たちのわるいことに恋愛の醍醐味はまるでバンジージャンプみたく魂をなげだす命がけのすれすれに落ちていて、癖になってダイバーとして潜水するだけでは不十分として自作潜水艦をつかい深海に辿りついたものの、爆縮死する事例もあとを経たない。いわゆる情死のことだ。
未解決問題の第一分類として、人を真剣に愛することほど難しい課題は世界にほかただひとつもない。恋する相手とのあいだならなおさらなのだ。
つぎに、えらそうにも再度恋愛というのは何かを自分のつたなくおさない浅慮から恥をしのんで無理にひきだし考えてみると、そもそも罪深いものにもおもう。禁断の果実。いうまでもなく、仏教やキリスト教では少なからず規制していた。それが依存症をつくりだしたり、世を乱したり、国をほろぼすことすらあったりする。あげく輪廻し、繁殖の原因になる例もある。というかもとは生殖過程の美化だったのだろう。ヒトにおいて特に料理対象になっただけで、美食家が恋や愛の果実を色々きりわけ、混ぜ、色濃くし、遂には新たな味わいを求め、遍歴してきている。僕がいっぱしのグルメとはいわないまでも、つまりは苦味のある恋もある。ミキさんとのそれは苦味どころか超に鬼が鬼ヶ島から無数についてくる激辛だが、彼ならその不条理に耐えきれるだろうか、と僕はきのう瞬間感じたのだ。彼のツイートはきっと素直な本音だろうから、ある種の未体験はしあわせといえる絶対例のひとつなのかもしれない。むしろ仏陀が仏陀なら彼は僕よりはるか悟っていて、敢えて余裕の教授思想を語ったのかもしれない。少し理屈をいうが、でもつぎにのべるとおり特定の愛に関して知らない方がいい面があるとはいえないかもしれないとは、恋愛学学習中の身分で、まだ実在しないしすべきですらないかもしれない茨城恋愛大学校と呼ぶ専修学校ではちょっとした講座を開ける助手くらいにまだまだすぎない知識や実技水準なのだろう僕も、思う。
恋や愛が日本語で異なる語彙だとすれば、改めて定義し、恋を性愛の、愛を博愛の意味と解したとき、もししりえれば、後者は彼をも温かくつつむだろう。もし、神の博愛とやらがイエスの語った幻想だとしてもだ。
とかく、自分はその博愛では救われず、ミキさんがいなければ不完全な人間かのごとく世界にほうりだされているが、なんの報いもない。なんの慰めもから回りし全くといえるほど機能しない。それでおそらくは少しより心優しいか、単に下心しかないか、それらいづれも入り混じるミューデが、僕に同情してそばにきてくれたのだ、と考えることもできる。でも本当だろうか。
おとといの夜、僕の姉をミューデは「お姉様」と呼んだ。ミキが首吊り師の母親を「お母様」と呼んだ様に。ミューデにかぎっては、僕の姉が「ミューデさんがいるじゃん」と僕を心配して、そばにいてくれた女の子を彼女の属性や過去の経緯もわきまえず一見みた感じで語っただけに僕にはおもえたので、色々ミューデとは何者かを姉に教えたのだけど、結局それは全ての事態にとってあまり効果なく、なにか焼け石に水みたいだった。どうでもいい話だけれど、『美少女戦士セーラームーン』の中で愛野美奈子というキャラクターだったとおもうが、独自の変形ことわざをいうのが面白いと僕は最近そのアニメみてみて思ったが大抵ほかのムーン戦士が言い直しちゃって、もとのにもどしてあげてた。僕は応用して新しいことわざを原型しりつつつくることがかなりでもなくたまに遊びであるけど、詩の様に。本歌とりとは捉えないのだろうか、と。むしろ僕なら愛野さんの愛すべき詩才として言うたび面白がるのになぁと思った。それも、ミキさんがセーラームーンを好きだと言っていたので、たまたま入った月額動画でわざわざ当のアニメを観てみたときの話なのだ。最近。あとでミキさんは「そんな好きでもない、おばあちゃんの家に預けられてたときみせられてただけ」とかいってたが、「全シリーズみた」ともいった感じだったし、新作アニメにも関心もっていた。僕は全部はみてない。シリーズ後半ほどだれてくる感じ。
なんの焼け石かというと恋の。
要は、僕はもしかしてミューデが好きかもしれないのだ。そしてやりとりのさなか、ユーチューブの僕の哲学講義の、ライブ配信の途中だったのだけど、勝手にというかはためにみてのおねえちゃんの感想だったのだけど、ミューデはなんで「お姉様」といったのかといえば、ありがたかったのではないか。そう僕は感じた。ミューデは思ったより女子キャラで。もうおばねーちゃん。乙女より乙女的で。まさに純真な少女のこころで、好きな人がかなしんでるのをみてられなくてそばにいたのに、僕の姉だけそれに気づいてくれた、と嬉しかったのかもしれない。あるいは下心に気づかれてラッキーくらいかもしれないし、それらの中間か、でも、無意識にかもだけど、ミューデ側は。僕がみるにまえから独特のひとなのだ。ミューデって。多分ボーダーかもなアスペルガー症候群と、かなり激しい心理病質を同時にもっている、ようにみえる。