2023年7月31日

本と教育

自分は相当本を読んだ。だいぶ控えめに言っているが、少なくとも、15歳くらいまでに祖母の残した日本文学全集だの、それ以前から、物心つくかつかないかころからなのか母が連れて行ってくれた図書館で借りた児童文学だので基礎ができていたので、滑らかに大読書家になっていった。詳しいことはユーチューブのラジオ講義に残してあるので省くが、家にノンタンの絵本があったし、漫画だのふくむ本もあまたあったので、文字情報に触れるのは慣れていくべくしてなれていると思われる。うちは祖父母まで全員大卒で祖母が文学部だから、最低でもそれ以来の文学関係の文化資本の蓄積があったのだろう。
 小学校低学年、小2だったかのとき、漱石の『吾輩は猫である』が教室のフリースペースみたいなところに置いてあったので、そのころの僕が単に背表紙のタイトルで面白がって読みだしたら、それなりに面白いらしいと思って、二宮金次郎みたく持って帰ってきて全部よんでいた。ちょうど、今も北茨城市立精華小学校の入り口の同じところに二宮金次郎の銅像があるが、あの前をまるで絵みたいに像のとおり、それなりに分厚く子どもの手には小さくもない黄色い本を手に持って、ランドセル姿で読んで歩きながら家に帰り、全部よんでいたのである。たまにそういう子みかける。
 ところで、それらの読書好き度が自分は普通ではなくなっていき、15歳のときから電車通学の行き帰りはいうまでもなく授業時間中もずっと本を読んでいた。おもうに特に後者はギフテッド的なものの解決策だった。当時の学校教育はおそらく今のより更に拷問的硬直的で、自由度が皆無だったので工夫して教科書の間に挟んで読むしかなかった。高校の全授業時間のほとんどの部分はそうやって脱構築して使っていたので、自分は日本人が陥りがちな無批判的思考の罠におちずにすんだ。教育者が生徒より愚かなとき、生徒が単に教育課程へ素直になにもかも従うだけでは自己教育に失敗してしまうだろう。
 それから39の今まで時のゆるすかぎり何か本だの文だのを読んでいなかった試しがない。

 尤も、ここで言いたかったのはこういうことだ。
 自分は色々な人々をみたが、基本的には勉強をよくしているほどまともな認知力を得やすい。無論例外もある。だが、総じて無能な人々は、後天的に教育を受けても、やはり無能なままだ。悪性の者が教育課程をへて逆に悪辣さをましていく場合ばかりを自分は見た。
 したがって、教育至上主義者といおうか、教育によって人が変えられると強調する人々に利益相反がないかよく注意してみるべきである。教育業者の誇大広告かもしれない。そして本という媒体の形にこだわる人もまた同じで、元来、それは情報伝達の媒介にすぎないので、情報自体が優れていれば媒体がなんでもよい。「辞は達するのみ」と孔子が『論語』でいう通りだろう。