集団は、彼らの好む対象に価値を与えている。例えば今の都民の相当数ならそれは通俗性である。資本主義的注意経済の元で、彼らは視聴率稼ぎ目的にはこの特性が的確な選好対象だと考えているのだ。だがテレビは潰れつつあり、YouTubeは詭弁屋に情報汚染された。底辺への競争は、集団の愚劣化をもたらす。社交媒体の企業群は愚劣化を単に視聴率稼ぎに使った。それは広告収益を目的にしたものだった。投げ銭や課金制を導入しても状況は変わらなかった。愚劣化は「楽をしたがる」民衆の本性に属しており、ごみ情報をつめこむ事が仮想脳死にはふさわしかった。パンとサーカスの様に、サブカル娯楽は世に溢れた。
素の状態より東京発のごみ情報に汚染されている国民一般の脳は、より堕落しているだろう。
「SNS断ち」や「一人キャンプ」がはやったのは、「インスタ映え」や「バズ」至上主義への反定立で、事実、進んで情報遮断しなければ企業群から自由になれない。情報化は新たな公害を持ってきた。負の注意だ。人は生物として危険な情報を察知し易い。注意喚起を呼ぶ情報は負の情報として盛んに拡散されがちだ。
この法則を悪用したのが社交媒体の企業群で、ニュースサイトと連携し、報道機関をまきこんだ。
ドナルド・トランプは毎日何か騒動を起こそうとし実際それは成功していた。安倍晋三はずぶの無学で自然していた。英語圏で知性派が過疎化していない様にみえるのは偶然ではないだろう。日本語圏では確かに過疎化している。愚劣化が深く蝕んでいるのが日本だという話にすぎない。米英圏では反知性主義批判が手早く進み、反トランプ勢が多数を占めさっさと政権交代が起きた。だが日本は暗殺まで、安倍崇拝念仏が続いた。愚劣化が手遅れになる前に、通常、知識階級が何か対策を打つだろう。衆愚政治(アリストテレス『政治学』の定義では民衆政治)というものを、個々人が公益より私利に耽る失敗形としての多数支配と定義すれば、今の日本がまさにそうだ。衆愚は注意経済下の人気度が情報価値の目安と誤認していて、公的正義が陸に分からない。
言論と表現、思想信条、信仰あるいは出版と結社の自由が今ほど重要な時点はまず考えられない程だ。何しろ状況打開の知恵が弾圧されればもはや国ごと自滅しか道はないからだ。
亡国を冷笑主義的に面白がる者は、自分も襲うだろう苦しみを空想したり、他国の実例を調べる余地がない。加速主義者も類似だ。
無能な御用学者らが散々メディアを跳梁跋扈、やってきた事といえば亡国への案内役だった。彼らは単に国にとりつき肩書売名しつつ、物知り面で私利を貪るしか根本目的はない。
彼らが歴史の断罪に遭うのは慧眼の士には明らかだとはいえ、そもそも誰からも忘れ去られる日が一刻でも早くきた方がよい。