狡猾、ずるい、悪賢い事は、その性質がない状態より公害度が高い。
モギケンらひろゆきを賞賛する人々は、単に有罪判決後賠償金踏み倒しのよう意地悪行動をしても、私利を奪えればそれでいい、と考えるほど共感知能が壊れ、まず良識が機能していないのだ。当の人物らを栄えさせる東京圏衆愚も同じだ。
関西地方の人々は、明らかに彼らと同程度のイケズ(意地悪)集団を作ろうとする。それで彼らのイケズ度の外にある、性善的思慮の類は全く正反対に見誤ってしまう。例えば渋沢栄一『徳川慶喜公伝』自序にある様な徳川慶喜の貴族主義的で高度な公徳を理解できている関西人を見た事がないのはこの為である。
また南関東の人々は、彼らと同程度の町人的衆愚な事を前提に、むなしいうぬぼれと中華思想の眼差しで、例えば福島県の様な異文化の他者を、暴利目的に搾取しようとする――かつて京都人や奈良人一般が行ってきたのと同じ、自文化中心主義の過ちを彼らは、天皇一味の闇の権威にすがって繰り返しているのだ。
本居宣長は、本気で「物の哀れ」を信じていたのだろう。彼にとって強姦罪や強制猥褻罪、不倫、児童への性犯罪などは問題にならなかったのだろう。無論、女らの絶望にも何の共感の念も持っていなかったのは確かだ。浮舟の自殺未遂や出家をも無視した本居は、良心の異常に欠如したサイコパスだったのだ。
我々は全日本国民が、一様に良識を持つとは到底信じられない――実際、関西地方で生まれ育って生きている人々は唯の一度も、「蝦夷」「熊襲」「隼人」「東夷」等の関西地方の文献にみられる日本人差別の悪魔用語集をうみだしつつ、政権乱用で常用してきた恥ずべき悪業の山に、懺悔と謝罪できた試しがない。
東京人らが皇室と「言葉狩り」なる『1984』真理省ばりの蛮行をしてきたのは全くの事実だ。彼らは出版・報道検閲も長らくGHQと行い、赤狩りした。
なぜ宮内庁二階にはべる宮内記者会を中心とした記者クラブなどという報道カルテルを解体しないか。無論覇者気取りの彼らに全国民洗脳の悪意があるからだ。