ラジオ(失われた時代のために)
2021年
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2021年12月31日
2021年12月27日
復讐されるべきあしき行状
結局は世界史で原爆投下の復讐を言い繕う
2021年12月25日
宇宙全体と心
2021年12月23日
再生
2021年12月21日
2021年12月17日
自明の天敵
いつもの事だが、僕を傷つけてくる人は自動的に自滅する傾向が甚だある。
今回はモギケンという人が、綿矢りさという作家をもちあげていて、それで僕に間接的に有害な影響を与えている為に――自分は反道徳主義・悪徳賛美の公然たる称揚に極めて強い不快感や危機感を伴う激しい恐怖を感じるので――モギケンのツイッターに一応その事を告げてみたが、モギケンは逆に全力で、ボイシーというラジオアプリで綿矢をほめはじめた。
大体こういう行動をとる人は、自分の経験上、一定期間でなぜか大袈裟な感じで炎上とかして社会的に転落する事がとても多いのだ。
最近でいうと、少なからず似通った感じで東浩紀と津田大介が大炎上していた。ほかにも前例多数。なにせ自分は善意の塊みたいな人間なので、そのひとにわざわざ敵意を向けてくる様な人って要は天につばを吐いている様になるのだろう。
少し考えてみるだけでもそのモギケンの行動って異常値なのである。普通に考えて、悪徳賛美をやたら美化するって辛うじて可能なのは虚構の中だけで、しかも綿矢は意図的にそれをやっているのだ。要は悪趣味をばらまく性悪作家みたいな感じ。端から退廃主義を悪意でやっている。より正確にはその様な芸風で売ってきている人でしょう。まぁ僕は吐き気がしちゃって読めないから綿矢のは最初の3作目でそれ以上読み進めてない、もしくは読み進められないし読まないんだが、かつ勿論無限に近づかない様にしてるんだが、そもそも自分を京都嫌いにさせた張本人だし。
どちらにせよ、ここでモギケンは反道徳的な行動を現実の次元でやっているので、非常に危険だという事ができるだろう。
もとが反道徳主義って一種の性悪の慰みものとして京都とかいう退廃した中世都市で、紫式部が始めた事だ。それ以前のお話は『竹取物語』みたいな真面目で、少なからず良質のものだったのである。ところが、モギケンは小林秀雄のファンらしく、小林がある種の妄信的崇拝でもちあげている本居宣長経由で、モギケンとくれば紫のやり口を称揚している。しかもなぜか『源氏物語』全文自体を読まずにらしい?
だからしてその延長上に、やはり京都から東京へ出てきて悪徳賛美の私小説をまきちらす綿矢も、特にモギケンは自らの唱える質感原理主義にあてはめながらほめちぎっている感じなのだ。おそらく大部分は読んでないのだろう、いつものごとく。
読まずに批評ってスノビズム、部外者思想じゃなかったらなんなのだろうか?
自分は質感なんて芸術の要素としてしか評価しないし、いづれにせよ不道徳な事は単に悪いとみなすにすぎない。
なおかつ綿矢は未成年の性売買罪『インストール』にせよ、集団強姦美化『夢を与える』にせよ、実にあくどくて品性下劣な内容をかきつけ、おやじキラーみたいな既存キャラで自分をおもに都内の外道に売り込み続けるだろうし、それらを擁護しまくる様な連中に何を言っても無駄だろう。なにせ京都人の猥褻小説自慢は元から腐敗した天皇・藤原政権にへつらうための伝統だったのだし、江戸・東京人の猥褻物自慢はかれらの下衆さにとって単に自慰のため必要らしいのである。それらの下卑きった文化形態のなかで道徳主義的プラトン物語の内容などどれほど必要性を啓蒙したところで、モギケンやら綿矢やらに理解できるとは思えない。そんなに芸術知能が高かったら綿矢については最初からあんな下劣なものをかきつけて世間にまきちらさないだろうし、仮に過去の過ちだと自覚しえたら子育てがひと段落してからでも再び表になんてでてこないだろう。また反道徳主義的内容を少なからずわかっていながら、もしくはろくによみもせず知ったかぶって「世界一のアイドル文芸」「天才」などとほめそやすモギケンも人道犯罪者としては同罪なのである。
僕にできる事はすべてやった。ユーチューブにアップしてる講義ラジオで、自分側にわかっている須らくの事を文学論として解説し置いておいたんだが、以後、モギケンが反省するかといえばまずしないだろう。過去の彼の行動系列の感じから。彼は自分が期待するよりもっと傲慢なので。おそらくご当人は文学の読解力に自信をもっているのだろう。しかし、それは自分の目にはおそろしく穴だらけである。
反道徳主義を唱え続ければ現実に於いてどうなるか? それはモギケン自身の今後の人生をみていれば明らかになるのではないかと思う。僕はもうあの人にかかわりたくないし、金輪際かかわろうともしないだろう。
ひとつだけいえるのは、僕は綿矢含め反道徳主義の系譜にある作家全般を非常に強く軽蔑しているし、そりゃーそうだろう。僕は最善さを達しようとして生きているし、その究極の形は神、こと僕の定義では全知全能全徳なのだ。そんなの遠大な目標だから生きている間には比較的な形でしか到達できないが、その中途段階ではどうせすべての不徳さなんて打ち捨てねばならないのだ。ゆえにモギケンにせよ綿矢にせよ、自分からしたら自明に天敵なんである。
2021年12月12日
断片形式と感覚主義あるいは文化の更新
僕は人間界で余りに色々な事を感じまくるので、明らかにほかの人と経験値の数値が違う。それは結局、自分の方がより早くレベルアップしてしまう、とかそういう部類の事なのかもしれない。
しかし、自分がそういう無数の事を感じまくるのは事実なので、それらを記述する方法を何とか身に着けていったのではないか。自分が色々な芸術をつくらざるをえなかったのは結局そういう事ではなかったか。自分がどういう事を感じているのか、他人に伝えるすべとしてはそれしかない。
で、この1か月、本格的にユーチューブで音声を取って出してみたのだが、いつ消えるとも限らない。なんでかというと最近ガーファムこと米国ビッグテックの動きは大分怪しいので、向こうが色々勘違いし、というか大いに誤解し、自分の表現をいきなり消してくる可能性が非常に高まっているからだ! なので一瞬で消されて自分のインスタの写真集はなくなった。普通に海の写真アップしてただけなのに。復活するかどうかも申請中だが不明。そんな動きばっかりなのである、最近の米国企業って。普通に表現統制しまくってくる。しかも冤罪で。
その経緯の事は文字で説明すると長くなるので、口語で言った方が細かく、早く言える事を発見した。どの回かは忘れたが僕の講義シリーズのどこかでいった。要はビッグテックっていまや専制君主と化しているんである。
断片形式。自分はこれからそれを使って色々書くしかないのかもしれん。なぜかというと自分はこれまでそれをブログという形にまとめてきたのだが、これまでのやりかたでは不十分なので。記事単位でまとめようとしていたんだが、これだともっと多様で複雑な事を一気に詰めることができない。
自分は余りに色々な事を感じるので、それらを論理的秩序にまとめるとどれもこれも不完全な事になる上に、そもそも僕が感じている事は必ずしも論理ではない可能性がある。だからそれらはどれも不完全な記述になる。自分がやろうとしている事、自分が感じている事をより緻密に記し他人に伝えるには、或いは現にやっている事を伝えるには、断片形式の様に感覚主義で記述するしかないのだろう。
ただ、自分も論理的に思考を深める場合はある。それは自分のユーチューブチャンネルきいたらわかるかもしれない。自分は少なくとも12時間とか、要は起きてる間ずーっと同じ論理的主題を継続して考える事とか余裕でできるだけの集中力はあるんである。昔からある様な気がする。だからめがねっ子になったのである。ずっとドラクエやってたので、学校から帰ってきてから。親にごはんだよーといわれなければ永遠にできた可能性の方が高く、実際、おとなになってからやったらごはんだよーといわなくていいと僕がお母さんにいっているのでもういわれないために、実際、食事の時とか以外ずっと集中しつづけられるのだ。すなわち自分にとって論理的思考ってのも重要な側面なのだが、究極では自分の脳内地図の様なのを記述する或る手段にすぎない。
自分がこう感じている、こう思っている、こうしたい、こうなるべきだ、と理想や現実的計画だの色んな経験だの知恵だのを他人に伝えるにあたって、自分は当然のごとく自分に最もふさわしい様式をとるしかない。で、その完成に向かってこれまでずっと進んできたのだ、結果からみても。
僕が小3だかの時、小2すかね? 女の先生だった時、自分は『麦わらぼうし』という小説を書いたんだが、学校の授業だか夏休みの宿題だかで。あれを朗読させられた話はユーチューブの方のどこかでしたと思う。でその小説をみんなの前で発表し終わったとき、先生が僕だかみんなだかに「ずっと書き続けて下さい」といった。あれは密かにだが自分はいまだに継続しているので、そのとおりになっている。つまりはエッセイスト、随筆家っているけど、あるいは詩人ら。そういう人らってやはり、自分の中に或る伝えるべき観念などがあって、感覚なり。それを他人に伝える事になんらかの意味を持たせる能力があり、その意味なり感覚なりが重要な人を指すわけだが、自分は作文という分野では当然それをできねばならない。
自分は『枕草子』は感覚主義の表現として人類史のなかでもひとつの極点だった様に思うが、あれは差別的記述というつまらない点がある。火事で逃げ込んできた人をからかう様な描写とかである。しかも京都御所の火事でである。自分らの責任で火事にしたのに家を焼かれて逃げまどう民衆をからかってんである。作者と皇族側が。イケズの本領発揮。まぁ当時の価値観の記憶ではあるが。今の価値観だとその箇所を除くと、大まかに感覚主義的記述ではすばらしいのではないか。
だから自分としてもそれをこえる成果をあげねばなるまい。道徳的にも、好み的にも。技巧的にも感覚論的にも。全面で。それが文化を更新していくという事だ。