2021年7月27日

滝口の分析、一

滝口という自分が絡まれたツイッター上の自称捨てアカウントは、自分が嘗てみた中で最も邪悪な人間性を持っていた。
 邪悪さを更新してくるという事は一つの奇跡でもあり、人類集団全体の中でも特筆すべき特徴、しかも悪い方面へのそれを持っていないと、そうそうそうはならない。以下、一体どういう特性をこのアカウントが持っていたのかについて詳細に分析し、後世の公益のため公共の便覧に処する。
 なぜそうしなければならないかは全文を読めば分かる様に書くつもりだ。その様な分析と対策が絶対に必要なのは間違いない種類の超絶危険政治思想を、この人物はたしかに宿していた。それは、恐らくだが、かの悪名高いヒトラーより邪悪なものだ。つまり史上最悪の悪性者に、自分は偶々ネット上で触れてしまったらしい。

 この滝口なる人物は、御所の清涼殿にあって武士の詰めていた場所「滝口」がアカウントの写真でIDもYamato694、ツイッター上の自己紹介によれば自称右寄り、また「首都圏(古代日本)」などと居場所を記している。
 特に古代の範囲を中世に限っていなければ、縄文期以前の人口中心の首都圏は関東地方だったわけだから、わざわざ古代日本と記述するところをみると、弥生時代以後に移民してきた弥生民族の侵入後、奈良や京都で飛鳥期から平安期以後にいわゆる渡来人とよばれる移民を導入し、平城京・平安京などと称していた一時期を古代日本と称して、今も昔も京都が首都など、一種の京都中華思想を述べる人達とよく似た言動とみえるわけである。中華思想そのものが中国からの輸入品であり、人口中心がずれた一時期にこだわりつづけ、しかも渡来人以前の弥生人・縄文人をふくむ日本本土(本州、四国、九州など)の歴史もしくは琉球やアイヌらの首都の歴史を古代日本から除外し暗黙になかったことにしているという仕業をみるに、また、たとえば『魏志倭人伝』でしられていた邪馬台国の場所が確定していないからには、少なくとも関西地方、特に、「滝口」の置かれていた京都またはID名から奈良になんらかの帰属意識を持っている人がこの滝口である可能性がある、というのが、現時点で知られる情報で分析可能な事である。
 かつ、特に以上をかんがみると、彼(以下、人称代名詞は仮に男性)は彼自身の政治思想にもとづいた表現をアカウントに表記している、匿名アカウントの可能性がある。滝口が実名でヤマトも実名の一部という可能性もなくはないが、アカウント表記にみられるもろもろの思想形態を考えると、かなりの確度で匿名性の方便、適当に作ったがつい内面のイデオロギーが漏れ出しているアカウント名・ID名と想定する方が現実味がある、と解釈できる。自称捨てアカウントな事とも併せて、だ。
「全ては和語に通ず」など、言語学的にも遺伝系統からみた人類史的にも完全に自民族中心主義としかいいようがない言説を自己紹介内で公言している面もみられ*1、要するに、言語と帰属意識を混同しつつ民族主義(ナショナリズム)の傾向をもっているが、その帰属範囲が、上述の「大和(ヤマト)」「京都(中華思想を模して自称古代首都圏こと近畿・上方などと自文化中心主義的に称するが、実態は平安期に新造された中世移民地区だった)」に何らかの関係がある可能性が高いところからも、ここで「和語中心主義」の様な考え方を、この滝口が公言しているのは、端的にいって、のちより深く掘り下げて分析するが、大和民族至上主義*2を、暗に信奉している人物だった、と第三者からは考えられる言動なのである。

*1 例えば日本国内でも異なる言語圏といえるアイヌ語の存在、ミトコンドリアイブ・アダムの存在したとされるアフリカの諸言語と比較すれば、「和語なるもの」いわゆるのちの日本語が、系統樹的に後発なのは確かなので即座に偽と反証できる。その程度の常識的思慮ももっていないという点では、高等教育以後の知的訓練上、少なくとも人文学系統の知慮になんらかの問題を当該人物が持っている事もまた確かであろう。

*2 大和国の範囲は古代の奈良圏なので、すなわち奈良民族至上主義とほぼ同義。但し京都人などがこれを援用する時は、なぜか、奈良・大和の部分が、京都市又は自己へと恣意的にゆがめられ解釈される場合が頻発するのに注意。

  以上をまとめつつ当該・自称捨てアカウントの操作人物像を再定義すると、滝口とは

A.京都中華思想または奈良中華思想を暗黙に信じている可能性がある
(近畿中華思想ファシストの可能性がある)

B.右寄り、和語中心主義、古代日本首都圏などの言説から、関西地方に何らかの帰属意識を持っている可能性が高い
(単なる自民族中心主義の一種である関西民族主義を、適当に恣意的な理由づけから、大和民族至上主義に転化させている可能性が高い)

 滝口は、そもそも自分へ自明に名誉毀損している刀エッジという別匿名・偽名アカウントのツイートを、それが名誉毀損だとはっきり知りながら(「拡散する他人」は私の文意を誤読している、と私への滝口からの最初の返信あたりで、滝口当人が、既に知っていたらしいので、滝口が法的に悪意で)、ツイッター上で公然と拡散していた。これだけでも滝口は既に、意図的に犯罪集団にまぎれて名誉毀損罪に手を染めているのだから、最初にわざとあるいは無知から悪意ある誤読を引用リツイートでさらし、私が一度もしていないホロコースト揶揄の正当化をふくむ人種差別主義のぬれぎぬを私へ公然ときせてきた刀エッジと、共犯あるいは共謀罪という類型に該当するのが、ツイッター上の言動の証拠から確かな犯行の事実であろう。
 また、滝口は、実名アカウントであるわたしから、名誉毀損を目的に刀エッジからの引用リツイートを拡散しているならとの謝罪賠償要求にはじめ、ただひとり通らぬ抗弁をくりかえしていたのだが、その際、人間的にも口をつく限り無限にぬれぎぬしてくるという根っからの悪性なのはいうまでもなく、彼の悪質極まりないひねくれた冤罪三昧(あとで詳述)の言い訳中、一番自分が驚愕したのは、自分が韓国の友人(知人)について誠意の限り語り、日本政府に侵略罪は二度と行わせられないと憲法前文と同じ意味内容(政府の行いで二度と戦争の惨禍を繰り返さない事を誓う趣旨)を述べた所、それを滝口は読み取っていながらに、およそ完全に悪意としか考えられない口調で、「じゃ、あなたは韓国が大っ嫌いですよね?」と、なぜか正反対の濡れ衣を着せようとしてきた大悪事だ。

 ここにみられるのは、関西人のうち特に京都人がとりがちな「イケズ」(「意地悪」の京都弁)と呼ばれる行動類型、言動の類型という風にみてとるのが自然な事案ではないかと思う。相手が(おおよそ善意で)言っている事を悪意でうけとり、悪意で返す。しかも極めて陰険な性悪のやり口で、言葉のあげあしをとったり、相手が一番嫌がる事をわざと言ったりして、狡猾かつ暗鬱なやり方で反社会的に攻撃するというのが、ザ京都人ミームとしてその内外で最も広く知られているといってもいい文化特性で、まさに、この類型とおおよそ完璧に一致する言動という風に自分には感じられた。
 事実どうかは知らないが、滝口アカウントの典型的イケズ言動が、余りの野蛮さで、自分の中に、滝口によるツイッター操作人格への甚だしい軽蔑の念をもたらしたという事である。実際、イケズなる言動の目的は、ステレオタイプ化されている例でいえば外部からきた人達などへ「ぶぶづけどうどすか(お茶漬けを食べますか? という婉曲表現で、さっさと帰れと示そうとしている)」、などの言動でわざと嫌がらせる或る種の嫌味が目的とされ、ここで、私が韓国の主権を守るつもりだと友情のために言動したのをみてとって、「韓国が大嫌いですよね?」と単なる悪意を極めた意地悪でしかない言動を敢えてとってくるのは、良心をもつ世界人類の常識的には理解しがたい言動だが、何かしら解釈しうるとすれば、滝口の精神が狂っているのでなければ京都風のイケズに限りなく近い言質で何かしら相手を嫌がらせようとした、相手が一番嫌がる事をいおうとした単なる嫌がらせだと解釈するのが妥当であろう。無論、背後には反韓思想の様な、彼の民族主義的な差別意識が入っているとは思う。さもないと想像もつかない様な嫌がらせである。
 なぜ私が韓国を嫌うのか。そんな理由がどこにあるというのだろう。好意的に接した事こそあれ、一度も韓国の人から何か悪い事をされたりしたことがない自分にしてありえない事であれば、寧ろ京都嫌いになるだけのあまたの差別的言動やら(常陸を田舎と見下す文脈に置く『枕草子』『源氏物語』の昔から)、過去の歴史上の侵略・犯罪行為をあまたされてきているのだから、もし私的に大嫌いかどうかでいえば、滝口が自称古代の自称首都として愛顧しているらしい当の京都のほうになるのが、因果応報あるいは人情の必然ではないだろうか?
 実際、こういうイケズ言動をとる人というのは、世界中を見渡しても殆どおらず、極めて特殊・特異で、自分は本当の話、同様の言動をとる人間というのは京都出身者でしかみたことがない。当人達の無意識から流れ出してくるように見えるが、一種の消せない癖、多分それははなはだ悪い癖だが、中世じゅう世襲政治屋で武力をもたなかった公家同士が悪口でその種の足の引っ張り合いをしていた政治文化的な背景からきた、当人達だけが気づかない諸言動に見られる烙印みたいなものだ、というのがわたしのみるところで、なるほど、滝口が上記AかBかいづれかに照らせば京都の人間である可能性も浮き出てくるが、そこまで断定しうる証拠までは持っていないので、とりあえず、ここではこの滝口なる者が凄まじい性悪で、公然と相手が一番嫌がると彼として推測した事を、陰険な裏表の詭弁、詐術の意図、あるいは諸々の邪知を駆使し自己正当化を図りながら相手を陥れるザ京都的な修辞をつかいわけながら、純然たる悪意で言った或いは他の言動からも言いがちな人物だというのは確かな事実である。この意味では、孔子、釈迦やイエスといった「相手が嫌がる事をするな」という利他主義の徳と、滝口は対極に位置する人物で、実際、自分は聖人側の考え方に親しんでいるので、最初にこの滝口の言動を見た瞬間、相手が極悪人だとはっきり気づくしかなかった。もしくは京都界隈では経験的にもその種の極悪言動が日常で、京都市長門川大作が茨城出身の女優・羽田美智子とのインタビュー(京都新聞、京都大好きトーク! 第十三回「ひと」)内でいうよう「さらっと流せばいい」のかもしれないが、私は京都の住民でもないし、京都出身者とそう頻繁に接するでもないので、その種の意地悪言動を平気で直接されるとその時点で悪寒がするほど気分が悪くなるし、犯罪者をこえた根っから極悪人のたぐいは同じ人間だと思えないほど違うと感じるので、いたたまれないのはいうまでもなく、相手の邪悪さに吐き気がしてきて被害防止の為にも到底同じ場に平気でいられるものではない。この世には性格の悪さ、邪知奸佞さを、禁忌くらい激しい嫌悪感で感じとる人がいる。自分は多分間違いなくその類型である。だから徳川慶喜や松平容保らが水戸や会津から京都まで無理に引っ張り出され、当時の京都人の底抜けに性悪なイケズ文化の中でいかに苦労したか、私あるいは我々には想像にあまりあるというべきなのだ。事実、誠心誠意、命がけで天皇に仕えていたのに、なぜか岩倉具視らあいかわらず極悪の京都流政治屋輩から、正にイケズな朝敵の濡れ衣を着せられ、いまだに名誉回復措置など何も行われていない、という歴史経験則通りの結果に終わっている。

 だからこういえる。政治の諸局面にあって絶対京都に関わるな。その際、京都人に善意を見せるな。さもなければ慶喜や容保と同じ目にあう。100%悪意でこちらが一番嫌がる濡れ衣を着せられ、魂や人格ごと辱められ、抹殺される。なぜならそれが「イケズ文化」「意地悪文化」と呼ばれる、京都伝統の流儀だからだ。彼らの中では公家風に、純粋な悪意で善意の相手を陥れるのが当たりまえと信じられているのだろうが、被害を受けたこちらから見れば、京都勢は決して政治面で触れてはならない相手だったという経験則が世界史の中にきえない業として積み重なる事を意味している。
 もう一度書く。政治で京都勢に関わってはいけない。慶喜と容保を見よ。これは代々固い禁制として、未来永劫、我々慶喜や容保らを地域先祖の一員に持つ東日本の一般住民が語り継ぐべき最高徳の一つだといえるだろう。それが偉大な彼らに西日本人達から着せられた心無い汚名から、我々が賢明に学び取れる、精一杯の報いなのである。
 勿論この禁忌を破って、東日本勢が政治的になんらかの成果を収める可能性もあるだろうが、自分の感じだと、全体としては損害が膨らむにすぎないと思う。だって京都の人達の基本目的というのが我意我執なのだ。巧言令色、なにをいおうとも、内心内奥、相手の為とかおくびにも思っていない事が基本秩序。リニア問題をみるがいい。奈良やら福井やらから無理やりルートを自分中心に捻じ曲げてまで、自分が天下一等の中華だというのが彼らの公然主張したいことなのだ。だからその意味で、京都の極右というのは、ナチがミュンヘンで粘っていたのと、ある種族優越感的な利己主義の面でそこまで違いがあるわけではない。自民族中心主義の上に、洛中民族至上主義の様なものを重ねている。それが彼ら京都市洛中側から中世をひきずる地元極右が、京都府内外で堂々と行うもろもろの差別の根源理由だ。純然たる中華思想。門地・民族差別主義。それらの、人権概念の存在しなかった平安京からの名残もしくは原型の残存。近代憲法や世界人権宣言とその点では相容れない。文化相対主義も、近畿民族同一性を毀損しかねない思想であるからには、到底彼らには受け入れられないであろう。それでいくと、例えばアイヌとか琉球、縄文文化、ほかの古墳豪族文化、弥生文化、邪馬台国文化などとくらべ、平安京以来の新参渡来文化であった自分達が相対化されてしまい、当人達の信じている中世都市としての古都権威の失墜につながるからだ。彼らはいまだに京都に他人がくることを「上洛」と表現するのがその一証。口先でしたてにでてくることはよくあるが、暗に徹底上から目線なのである。それが京都人なる帰属意識で自らを自己同一化しているもの、京都文化なるものをあらゆる角度から内から外から透視して調べてきての分析実感である。
 そして事実、私もこの一生の間、彼らと同じ目に何度も何度も遭ってきた。私はまだJR東海「そうだ京都行こう」CMでの印象づけだの、天皇が国政から暗に差配しているに等しい国定教科書でくりかえされる京都アゲの嘘の数々を信じており、京都に政治・宗教(神道)や観光広告からすりこまれたつくりものの好印象しかもっていなかった時代。18の時東京池袋のカラオケで京都出身の女にいきなり嫌味な歌をうたわれた。20代の時には綿矢りさという小説家の2ch文学板のスレッドで、作家としての彼女をセクハラから庇った途端、あらぬ濡れ衣を着せられ、十年にもわたり毎日実名で名誉毀損されまくったり、殺害予告に類する言動も何度もされ脅迫電話までかけられた。ほかにもピグ上にいた京都人達は、何十人のうちほとんど一人くらいしか例外もなく、自分や他人へ日々嫌がらせをしたり、愚にもつかない悪意ある言説をしてきたり、門地差別的言動を初対面でとってきたし、具体的に誹謗中傷などの犯罪行為も極めて陰湿な仕方で常習的にしてきていた。これはほかの京都とかかわりのある人達もおおかれすくなかれ同意してくれる案件かと思うのだが、イジメ発生率がずっと全国最下位なのはうなづける安定のイケズぶりなのが現場のありさまなのである。実際、京都に何度も旅行にいってるけども、父の時代にも修学旅行で腹痛で薬を買ったら中身が相当だかぬきとられていて生徒相手に詐欺られたようだし、僕が旅行中にも詩仙堂前の茶屋かねる甘味処のトイレで歯磨きしてからでてきたら店の人に睨まれ*3、おじさんは同志社だったが京都への進学おすすめしないといっており余程あわなかったとみえ、そのときおじさんの下宿に通っていた僕のお婆ちゃんの時代から寺とお墓だらけで暗い場所という評判であった。なるほど、これらとは別に単なる京都出身の友人がうちに泊まりに来た事もあって、その人とは別に仲が悪かったわけでもなんでもないし、ことさらひどい悪印象をいだきもしなかったが、それとは別に、上記の様にすさまじいばかりの悪印象が初対面で地元茨城といっただけで京都市の人に面と向かってピグで差別的言動されたとか最悪級の経験が別個に積み重なると、なんで関西圏でことさら京都の人が特に性格悪いといわれているのか、一種の文化的実感として理解できてくるのである。なんというのか被差別部落問題を京都市がずっと抱えているのはむべなるかなで、現地住民の性格が長い都市化の過程でゆがみきっていて、身分差別とか門地差別とかを平気でやってしまう人権以前の中世都市住民風の悪い癖がある面を実際に、実体験・経験的にもっているのである。それは、殆ど京都市民なるものと接する機会のない外部の人すらもよく感じとれるものであるからには、京都府内部の人も、ごく頻繁に似たような経験をしている筈だから、ずっとあの界隈で人権闘争があるとしても何の疑問もない。差別をする人たちは愚かである。そしてその愚かな人達のなかでことさら、意地悪の癖として固まってしまっているのが京都市の御所を位階頂点とする洛中(上京区)中華思想の、自称天皇が長安の都市構造を模する過程で必然にもたらされた差別的な構図なのである。

*3 連れだっていっていた鐵という当時千葉大だったかの友人が幼稚な冗談のつもりかうんこだ、とか言ったせいでなんだろうが、万一それを小耳にはさんだからって具体的に食べ物をたのんで食事してから歯磨きして出てきた客を睨むのはどうかと思うし、実際、僕は本当に、単に歯磨きしただけなのである。その後も僕はちゃんとお店でお団子とか買っているのである。いまだにはるばるとおくからきた客へ失礼だ、ぬれぎぬだと感じていて納得できない。あの店に限っては、客商売の精神性が洗練されていないことは間違いないと思う。お客さんの為のサービスとは思ってない筈だ。まぁ京都ってあそこにかぎらず全体として客に上から目線でくることがおおくて、正直、いわれるほど愛想も、私が京都市内数回おとずれていろいろ周辺で接した限りだれにもないみたいだったし、むしろごく一部の人ではあるが謎の気の使い方をしてきて(こっちが嫌がってるのにカラオケさせてくる)それもこっちの快適さは無視する様な感じで飽くまで相手中心主義にして的外れ、とサービス全般の態度が無駄に疲れて嫌な感じがするし、すくなくとも京都市内であそこだけの話じゃなかったけども。

 自分は或る秋田の僧侶にこれらの事を相談した。その僧は京都で修行した人物だったのでなにかしら分かるのではないかと思った。その僧は京都のいいところを見つけるようにした方がいいと自分へ忠告した。それで自分はなんとか京都人のよさをみつけようとしてみたが、結局、ある京都人――宇治人なので井上章一『京都ぎらい』からも知られる通り正確には梅棹忠雄ら京都市民から、洛中中華思想で京都ではない半部外者として自動的にみくだされる側に入るはずだが――と親しもうとしてみたが、この人物もまた、手のひらを返すように悪性の言動をよくしてきて、結局つきあうのすら無理だった。あの秋田の僧は、どうみても悪徳をひいきせよ、と無理な事をいっていたのである。現実にできるのは、釈迦が『ダンマパダ』その他の原始仏典でいうとおり悪徳の持ち主たちから遠ざかる事、縁を切ることなのに。
 それだけでなく、現にこの数日の間にまたもおそらく同じあるいは類似の目に自分は遭ったのだ。しかも今回は過去何十回も経験済みその種の京都イケズ性悪犯罪行動的なものに輪をかけてひどく、だからこそ特筆し後世に伝えざるを得ないのだが、嫌がらせしてきた相手がネオナチ系極右をかねてさえいたがゆえに、ユダヤ民族や白人・黄色人種への差別、あるいは原爆やホロコーストの被害者といった全く無関係の第三者まで、無理やり辱める様な言動を、この滝口と称する人物は、公然と私へ濡れ衣する形で、邪知暴虐のほどにも繰り返しとってきたのである。彼らはいつもやる事が変わらない。彼が分析A、Bのとおり真実、京都人または関西地方の関連人物ならばだが、おそらく、彼の母集団の文化が、その種の行動をあたりまえとおもっているのかもしれないだろう。さもなければ彼の言動は到底想像もできない、かんがえられないほど、悪質すぎて、私は事件後、強い恐怖でろくに動けないし、底抜けの悪意からありとあらゆる嘘を重ねた反日のぬれぎぬを着せまくってる反ユダヤ主義の極悪ネオナチ・大和民族至上主義者にころされる(現に実名アカウントがころされた、冤罪で社会的に名誉が抹殺された)という恐怖感のなかで、絶望して眠るしかなく、起きても心底からの恐怖心の中で起きて絶望していて、ろくに仕事も勉強も手につかないのである。というかつよい精神的ストレスで手足がしびれる様な感じがして、自由に動けないのだ。

続く