2021年6月10日

様々な人の集まりと類は友を呼ぶその基本法則

人は似た者同士結ぶ。悪人は悪人と、愚人は愚人と。
 京都や大阪の人々が好んで東京をめざすのは、そこに自分達と同程度の人々、客観的にいえば京都風の性悪(いわゆるイケズ)や、大阪風の阿呆(いわゆるお笑い芸人、おもろい人)がいると感じているせいだ。都道府県の相関係数もそれを示している。そして定着する人達に限ってこれは確かだ。反証したければ、かれらがあまり進んでこないような場を対比すればいい。根っから素朴で善意の人々が多いだろう田舎らしい田舎、具体的には岩手県とか、なおかつ、元御三家で生真面目な武士の様な性格の人が比較的多いだろう茨城県を、かれらが移住目的地として、特別の理由なく一般にわざわざめざすだろうか? 寧ろ「田舎」と呼んで見下し、進んで避けていたり、なにもしらなかったり、自文化中心性・中華思想によって、自称近畿の虚栄心によって初期設定風のかれら関西人特有の社会的・文化的偏見で進んで貶めてきていたりすることが経験的にも、甚だ多いのである。一方で、岩手はイギリス人の様、田園詩人以来の郷紳らの世界がある田舎好きの国民性と相性がよいとみられ、パブリックスクール・ハロウ校の分校が作られたりもしている。宮沢賢治は進んで地元の浜辺を「イギリス海岸」と名づけている。
 この様に、人は進んで気が合う人と関わる様になっているのだ。気が合わない人同士はN極S極のよう退けあう。性善的な人は性悪の気持ちが結局、寸分もわからないし、性悪にとっても逆にそうだろう。

 イギリス人一般あるいは一部の保守的なかれらが第3諸国といい、例えばイスラムを国教にしている中東圏をリチャード・ドーキンスがそうとみなすよう暗に途上国を見下す節があるのは、かれらには人間らしさより、近代主義・科学信仰による虚栄心の方が優先だからである。この自文化中心性が、人権確立後にもかれらの中で階級制度を維持させる原因にもなっている。

 日本に賢者や善人は身の置き場がない。それは衆愚が中心のくにがらだからで、そこにあっては匿名で卑怯極まりない下衆や外道が、殺人教祖である天皇を崇めなければ生きていけないのである。こうしてかれらはいじめという集団虐殺を日々進んでやる。少しでも賢かったり、いい人であれば真っ先に抹殺する悪意・悪業の完成を目的に。そしてこれをかれらは国体だとか集団の安心安全、天皇弥栄だとか呼んでいる。