東京人達が民間人が気まぐれに浮浪者を撲殺するとか、知事が2連続汚職で打倒され、新知事が公約詐欺をくり返しても再選してしまうといった劣悪な社会しか総じて作りえていないのは、そこで名声を得て上位を占めている人々が単なる拝金主義者や俗物達で、日頃の悪徳加減は明らかだからである。
都民一般の品位が低いので、その中で立派な人格の持ち主は出世できないし、単に俗悪な人が違憲な学歴差別(身分差別の一種)などで、無闇に称賛されてしまう。
その社会で高位にある者はその集団全体の徳の代理である。
無論我々にとって、この下俗な東京社会の有りさまは反面教師というべきだ。公徳私徳の優れた人物が高位に就くのでなければ、その社会が結局、偶然やなんらかの利益誘導上の策略でなく、よい影響を自他に与える事は決してできない。
そういうしくみであれば、その集団の平均的な人徳の質の目安が、選挙制度のもとでの知事や代表だといっていいだろう。衆愚が背後にいるから卑しい僭主が出現する。名君が擁立されるのは、その集団の美徳の結晶としてなのだ。そして事実、ある集団で名君と仰がれている者が、他集団からみれば単なる極悪人だといった事はよくある。その集団の比較的な質が、相対的に君主の資質として現れる。
茨城県水戸市の茨城大学や同県つくば市の筑波大学辺で、コロナ禍でアルバイトの減った学生へ寄付を募って有志が配布するなどその面でみる限りで篤志行為が大規模に行われている節があるのは、その大学町集団の平均的人徳の質が十分に高いからだろう。筑波大学生のイケンナ・ウェケ氏が同県つくば市で当たり前の様に財布を交番に届けた事が祖国ナイジェリアでは称賛されたのも、その集団の平均的徳が環境の影響として、知らずしらず伝染した為といえるかもしれない。コロナ禍初期、つくば市長・五十嵐立青氏の的確な対応は、当時の官邸のまごついた対応とは対照的だったので、ネットなどで称賛を受けていた。すなわちここに現れているのも代表の資質が、日本で最も研究機関が集積している茨城、特に研究学園都市つくばの集団の平均的資質を代理している現象であり、立派な人物が高位に就く前提条件は、その集団の優れた資質なのである。
英明で知られた徳川慶喜が、諸大名の利害を超えた統一政体を求め、尊王の大義によって皇家へ禅譲をはかったり(いわゆる大政奉還、江戸無血開城)、それ以後も国家経営へ誠実に仕えようとしていたのにもかかわらず、西日本の人々は彼へ濡れぎぬを着せ、あまつさえ幕末全体を通じ禁裏御守衛総督、将軍後見職を兼ねていた最たる忠義の証拠があるのにその正反対の朝敵という汚名を与え、いまだになんの謝罪の色もみられず、臆病者と道理の通らない悪意ある名誉毀損を続けているのは、一言でいえば、西日本一帯の平均的な人品が、慶喜出身地の茨城県(常陸国)の平均的人品に比べ、尋常でなく低いせいなのである。そればかりか、さも慶喜の禅譲を自分達、横暴な西軍、特に西郷隆盛による政権簒奪目的の侵略犯の手柄かの様に、どこにも通りえない道理で無理にいいかえてさえいる。当時の通訳、アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』や、山形の侍・雲井龍雄『討薩の檄』の記述から公に知れる所、単に利害関係のない第三者たる東北人士らのみならず、英仏両公使すら無罪の慶喜をかばっていたにもかかわらずである。これらだけでもすこぶる悪辣なのに、その西日本人達の中で今も称賛されているのは、彼と正反対の邪悪で浅ましいかぎりの利己主義者、恐怖主義者たちであり、そういう人々が明治元勲と事実と逆に美化され、にわかに信じがたい事に、英雄視されてさえいるのだ。伊藤博文はその一代表格で、慶喜の尊重し恭順した母方の実家にあたる皇族・有栖川宮の前で、操り人形のまねをし、皇室そのものを侮辱した事が当時の宮内庁御用係『ベルツの日記』に書いてある。
ベルツによると伊藤は会議の席で有栖川宮威仁親王の方を半ば向き、
「皇太子に産まれるのは全く不運な事だ。産まれるが早いか到る所で礼式の鎖に縛られ、大きくなれば側近者の吹く笛に踊らされねばならない」
と、笛を吹いて操り人形を糸で踊らせる身振りをしたという。
いかなる英慮ある名君も衆愚の間では決してその才幹を発揮する事はできない。寧ろその君主、指導者が偉大であればあるほど、その人の人徳を見抜き、信任できる民衆を選ぶのだ。善政は目立つ1人君主の故に善政となるのではなく、その君主を擁立する集団自体にも間接要因があるといえる。
そして下劣な集団にとってはその中で最もましな部類が大物扱いされているのだが、その集団の外、特にもっとましな倫理規範を持つ側からみれば、見るも穢れるほど品性下劣な人間であるのはいうまでもない。ナチが万が一、第二次大戦で劇的勝利を収めていれば、ヒトラーのユダヤ人虐殺はドイツ民衆の間で、今も当然の戦時暴力として美化されたままであったかもしれない。そしてその事は極東史最悪級の悲惨を御前会議以後の侵略戦争でもたらした、軍部統帥権ならびに大日本帝国政府(明治憲法政府)の全権保持者・昭和天皇を、あとづけで飽くまで平和を求めていたた君主かの如く言い繕おうとする悪魔的な日本人右派、或いは歴史学的にその論点に立つ不誠実なNHKにもあてはまるといえる。もし彼が戦争反対ならなにゆえ彼の一族が幕末に権力保持してからの戊辰戦争、日清戦争、日露戦争らにも悔恨の情を述べていないのか。いまだに奥羽越列同盟軍ら、松平容保へ濡れぎぬを着せての天皇の名を借りた西軍からの侵略被害を、天皇が謝罪した場面は一度もない。現に幕末の西軍側と違って、奥羽越列軍側の死者らは、会津の防衛に回った水戸の諸生党勢ともあわせ、靖国神社に合祀すらされていない。昭和天皇の発言をご都合主義で解釈し、戦後憲法の平和主義に照らし合わせ、負けた事についてのみ言い訳していると読みとれる部分を拾い上げているにすぎないのは誰の目にも明らかな事だ。もし天皇一門から逆に、戦争主義の言動を拾い上げようとすれば、史実として辿れる限り飛鳥時代の記録まで、無数にでてくるのだし、そうでなくとも第二次大戦に勝利していれば、世紀の大帝王かの如く右派が喧伝していたのは火を見るより明らかであろう。
西日本人一般にとって暴力による勝敗が善悪の上に置かれている。だからこそ明治元勲による慶喜や容保への卑劣な濡れぎぬや、汚名を着せての政権簒奪行為、侵略罪などの蛮行も正当化され、原爆投下に対しては天皇ともども仕方ないなどと、今も日本各地に置かれている米軍に対し総じてだんまりなのである。恐怖主義的な権術主義者の根性はなるほど下卑きっている。そしてそういう自民族中心で利己的かつ害他的な政治観、歴史観しかもてておらず、自らの地域が属した西軍の蛮行を少しも反省する事ができていない諸府県(薩長土肥こと鹿児島、山口、高知、佐賀、京都、広島ら)側で、抜本的に同質民衆がいれかわらないかぎり未来永劫でてくるのは暗君だけである。だがそういう野卑な暗君を彼らは偉大な英傑かのごとく宣伝し続けるであろう。彼らが猛省する日がくるとしても、それは彼らの平均的人徳の質が示す通り、具体的暴力の被害による致命的な敗戦によってのみなのだからだ。
賢く尊い民へは一言で足りるが、愚かで卑しい民へは最後まで、国際人道政治は強制力を働かせるしかないだろう。侵略主義者・吉田松陰や彼の唱導に応じた明治元勲らを神格化する西日本一般という悪辣な民衆のもと、それらの自治体の長らがいつ三度、侵略犯罪をくり返さぬとも限らぬ。極東にとっても世界にとっても致命的に野蛮な、単なる権勢欲のために暴走しうる衆愚という爆弾を、最たる狂った独裁君主の天皇家もろとも抱え込んでいるわが国は、国連にとって敵国視されるだけの理由があったというべきだ。西軍の地域こと薩長土肥京芸らは今日に至っても、彼らの明治以後の侵略帝国主義を少しも反省などしていないし、嘗て暴政をほしいままにした証として誇っているのだから。天皇家自身、勝利した戦争に関しては何一つとして謝罪の念を表明した試しがないし、彼らが渡来してきてからの侵略的な独裁政治の山を永久に美化するつもりでいる。
もし日本が賢慮ある民で支配され直すのならば、これらの蛮族勢力は既にそこではおよそ復活しえないだけ完全に除去されているか、彼らの勢力が完全に従属的地位に置かれている事は明白である。薩長閥の末裔が国政を牛耳り、天皇家も憲法を無視する退位法を無理に成立させるなど国政を専横している専ら、その兆しはみえないにせよ、あるべき未来は確実にそうでなければならない筈だ。無論、彼ら西軍の地域が倫理的な面で反省し、狼子野心が消えたといえる状態になりうる可能性も全く0ではないにせよ、現地の人々をみる限り、それが実現する期待は非常に薄いといわざるをえない。元勲らの事績を世界遺産にしたり、明治維新150周年など自らの先人にあたる恐怖主義者らの蛮行に驕り高ぶったり、語るに落ちる衆愚さは論外というべき民衆の不道徳さであり、今日の情報環境でもいまだにそうであるからには今後とも、大幅な改善は期待できないとして適切な対応を考慮していくしかないであろう。野蛮な民衆に対し文明の手段を講じても、なんの見るべき成果も挙がらないだろう。そういった衆愚ならびに世襲僭主一門(天皇家)へできるのは、国際社会が彼らの野蛮さ、反社会性、暴力の暴発をなんらかの警察的強制力で押さえつけ、未然にあらゆる被害を防止し続ける為の、囲い込み的な工夫だけである。