2020年11月10日

鬼女(フェミニスト)は性・恋愛社会で敗北した事を私怨とする傾向の、社会的荒らしに過ぎない

鬼女は女権乱用の悪意で、無実の人々への冤罪を自己正当化している。
 鬼女によるしばしば被害者を装った、或いは当人達が被害者と本気で自己洗脳しての加害行為への唯一の正しい対応は毅然とした徹底抗戦だけで、あらゆる場面で一歩も引いてはならず、敵対勢力の絶滅を期すべきだ。事実上、鬼女全般は女版インセルであり、自分達が恋愛社会で敗残者だと認めたくないが故の社会全体への怨恨と恨み分けが、彼女らの全行動理由になっている。即ち他人に害を為す事を唯一の目的にしている。
 女権は鬼女にとって乱用の道具で、悪意を補完する為のテロ兵器でしかない。鬼女に媚びを売る人々は、男女同権を建前に、己に好都合だが理屈の通らない不当な要求を社会全面で押し通そうとする悪意ある人々であり、この鬼女の片棒を担ぐ手先も同様に邪悪でしかない。
 原則鬼女の手先勢は社会的荒らしに過ぎないので完全無視が必要だが、妥協してはならない。共謀罪、強姦・準強姦・強制猥褻罪などの非親告化は、単に鬼女らの冤罪の悪意を完成させる悪法である。鬼女らは常に社会的抹殺の標的を探して社会のあちこちに潜んでおり、罪のない人々を手当たり次第に監獄に送り込みほくそ笑んでいるが、永久に満足する事はない。鬼女こそが重罪人だ。

 鬼女が性嫌悪または他人の性事情全てになんらかの恥や罪といった宗教的観念を悪用し、濡れ衣を着せ辱めるのも、彼女らがどこまでも恋愛社会での負け組だからだ。性全般が彼女らにとっては生存を恨ませる主因で、鬼女は性への劣等感を性・恋愛社会での勝者への攻撃性に転嫁している。そもそも性・恋愛の諸相では、程あれなんらかの力関係や行き違いが生じ、あらゆる場合に何の摩擦も起きないといった事はありえない。寧ろ性・恋愛巧者はその摩擦を、たとえ不快なものでも総じて楽しむといった資質を持っている。
 だが鬼女は性・恋愛の劣等生なので、関係の摩擦自体を犯罪にしたてる。鬼女は男性でいう一部のインセルや、男女を問わないオタク一般の様に、性・恋愛に関してはどこまでも利己的妄想の中で生きており、性愛にまつわる人間関係の摩擦が生じた瞬間に、悪意で相手方に濡れ衣を着せる。そしてこの悪徳の故に鬼女は永久に性・恋愛社会に適応できなかったのだ。

 鬼女が大量発生した原因は男女雇用機会均等法や、そういった擬似的な男女の結果平等を促す肯定行動と呼ばれるひいき(逆差別)・差別の蔓延である。
 真の男女同権下では能力・資質のみで人事が行われるべきだが、鬼女派は肯定行動で無理に、無能を出世させたがる。無能にも拘らず高い地位・役職を得てしまった鬼女は、当然ながら不徳でもあって、その地位や職権を乱用していく。斯くして冤罪、特にセクハラ冤罪といった性・恋愛の諸相を弾圧する目的での恨み分け的虚偽告訴が多発する。
 セクハラとは性的嫌がらせの意味だが鬼女には冤罪の手段だ。鬼女はharassmentという英単語の意味も理解していないし、そもそもsexualな物事に完全に不感症であり、他人がいかなる性・恋愛生活をしているかを見聞きすると全ての場合に発狂を始める。そして性・恋愛生活全てをharassmentすなわち嫌がらせだと主張する。鬼女は社会障害なのである。

 鬼女にとって社会生活とはいつまでも続く苦役であり、それというのも彼女らの楽しみは会社員その他による金儲けと、その金の浪費でしかない。しかもそれら浪費のどれもなんらかの対価を伴う世俗的快楽、奉仕や製品と交換できるに過ぎないし、それらのどれも僅かな慰めにしかならない。鬼女が行き着くのは、出産・子育てを伴う家庭生活を送る人々とか、幸福そうな人々への憎悪の念であり、特に、性・恋愛社会での勝者がそれらを兼ねている時に彼女らの憎悪感情は最大化される。鬼女がのど
から手が出るほど欲しがっていた本能的愉悦をその勝ち組らは公然と享受している。鬼女は日本なら誹謗と陰口を目的にした犯罪者の巣窟である匿名掲示板ガールズちゃんねるなど、同類と群れあえる場所に集まり、日々、魔女裁判で濡れ衣を着せる対象を探し続ける。性・恋愛・出産子育て・家庭生活など本能面で勝ち組とみられる芸能人など目立つ個人を自殺においつめる。

 鬼女の一部は自分達の悲惨が、容貌の醜さからきていると考え、美容整形手術を行う。しかしこれによっても性格の悪さの方には目がついておらず、というのも少なくとも恋愛の諸相では期間が長引くほど、性格が主な選好対象になっていくのに、それには終ぞ気づかない。再び性嫌悪に陥る。

 鬼女とは、男女同権を結果平等にまで推し進めようとした擬似的な男女平等を、男性差別や女性ひいきによってまで無理やり押し通そうとした誤った社会政策によって、量産された大量の敗北者だ。その敗北は、彼女らが本能的な性より、男勝りの仕事人間にしつけられた事からくる自己矛盾だ。

 鬼女が一番憎んでいるのは、性・恋愛の諸相から常道的に快楽を得ている自由恋愛主義者である。これは男女に限らず、鬼女にはどう転んでも手に入らない本能的満足が、彼らには有り余っているからだ。
 鬼女は性・恋愛での敗北を見越し、妨害での社会的荒らしに耽っているだけである。鬼女の偏った主張に媚びを売る様な社会では、あらゆる頽廃が襲ってくるだろう。「牝鶏晨す」は鬼女の類が、不徳にも拘らず高い地位を得てしまった場面での亡国を特に指す故事だ。欧米及び国連はこの点で滅亡の序曲を奏でている。人は性別によってひいきも差別もされるべきではないのだ。社会的性差(gender)すなわち男らしさ、女らしさといった文化が先入観として持っている、特定性別に伴う振舞いの典型性を指す語彙を、鬼女とその手先らはこれまた悪用している。この語ジェンダー・性差を、男女差別という意味で使う事で、女性を不当にひいきさせ男性を貶めている。鬼女は人権なるものを、唯の私怨で、社会的荒らしによって悪用しているのだから、どこにも正当性はありえない。来世紀にこの女性ひいき・男性差別思想を持っていた人々は悉く過去の過ちとして非難が当然とされているであろう。それだけ幼稚な下衆がはびこっているのが現代の欧米社会だ。