2020年10月4日

日本の最大の不幸

日本の都会人一般は総じて「商業施設」を有るとみなし、「花鳥風月」を無いとみなす。特に東京かぶれ又は東京人にこの傾向が激しくあり、東京文化に影響を受けているか、東京都を模範としてまねている都市の人々(例えば横浜、千葉、大阪、京都、愛知民ら)にも、多かれ少なかれ類似の傾向がある。日本の都会かぶれは、ある地域に対し、「何もない」と言う。だがこれは意味が通らない。この世は物質で満たされていて、何もない場所はこの宇宙に存在しないからだ(引力が極大値のブラックホールも引力子はある筈)。彼らは知的無能さあるいは無知のあまり、語彙を正しく使えていないだけである。日本の都会かぶれが無とみなしているのは、端的に風流な対象、具体的には自然や田園、里山で、もしくは、時に工業地帯といった部類の場所や風物である。都会かぶれはこれらの対象を彼ら固有の価値観で、蔑視さえしている。
 逆に、彼らは商店、特に娯楽施設を有とみなし、それにひたすら目が無い。日本の都会かぶれは、一言でいうと、俗物あるいは俗衆である。彼らの好む対象は悉く卑俗な娯楽または商売で、最も人工都市から遠い種類の自然にいかなる感受性ももっていない。この意味で浪漫詩人とは対極の生命体が、現代東京人一般や彼らをまねている都会かぶれ達であり、最も無風流な生態をもつ。商業的な娯楽施設――いわゆる歓楽街がその最たる場所だが、そこで与えられる快楽とはどれもこれも卑俗の極みで、大人なら酒に酔って食い漁るとか、性的対象とみなせる相手に媚態で接待されるとか、子供なら夢の国めかしたアトラクションで騒ぎ回るとか、いづれも最も通俗的な消費の集まりでしかない。風流を解する人であればある程、その種の都会かぶれを下賎と感じ、商業的な娯楽施設からひとりでに離れてくらしている。月を眺めたり、深夜に窓から穏やかな潮騒を聞いたり、秋の虫達の歌声に感激したり、落ち葉を踏み鳴らして歩いたり――真夏の昼下がり清流に遊んだり、梅雨の大雨の響きを眺めたりする。花鳥風月を知る人が、この世界で最も高尚な感覚論に通じる人といって間違いないだろう。そういう人が娯楽化した大衆向け公園のソメイヨシノの下で、酒盛りしている都会人から遠く離れ、或る春の日に人知れぬ山道でどこからともなく山桜が散ってくるのにより深い感動を覚えるとすれば、感覚が違うからだ。
 逆に、東京・江戸人の間では、粋とか萌えなど通俗的娯楽の中で最も直接的といっていい性風俗あるいは性的感覚、媚態に通じる度合いを美化している。この種の感覚は東京では殆ど唯一無二の美意識で、そういった感覚をもつ人達、特に身売りの上で商品価値を持つ遊女(現代語でいう風俗嬢)は、伝統的に大金を得ている。京都でも芸妓というより古い形で、ほぼ同類の接待様式がみられる。小京都と称する石川では京都のそれを、中間都市である名古屋では今日、東京のそれを真似ている傾向にある。
 即ちこれらの都会かぶれ達は、総じて無風流な人達で(所が都会かぶれからはこれを貶め野暮と呼ぶ)、代わりに性売買で粋がる。この都会かぶれ的な美意識は、漫画、アニメやゲームといった子供向けの彼らの通俗娯楽内でも全く同じで、要は人々をなるだけ刺激の強い消費活動に駆り立てようとしているのだ。その結果が彼らの「有」とみなしている商業地で、風流人から見れば最も汚い場所――性風俗の集まった歓楽街が彼らには理想郷だ。成程、感覚に与える刺激の強さからいうと、酒に酔った状態であれこれ性的官能性に訴える事をされるとか、高額めかした飲食物を一度に消尽するとか、あるいは子供なら彼らを楽しませようとして作られた乗り物にあれこれ選んでのりこみ異世界を飛び回り一日中めまいがする激しい仮想体験するなどは強烈だ。だがこの種の感覚へ劇薬じみた刺激が、想像力や感受性の発達した人達にとっては有害ですらあり、単に情感を麻痺させるに過ぎない。さも恐がりにはジェットコースターがちっとも面白くなく絶望体験でしかない様に、都会人一般の好む通俗娯楽は、風流人にとっては頽廃的な毒としか感じられないのである。即ち都会人とは総じて無感動あるいは粗野、無感覚、ガサツな人々で、この傾向は歓楽街化の度合いが激しい地域を「何でもある」とみなし好む人々ほどそうである。彼らの最たる典型人格はいわゆる男娼・娼婦で、とかく性感に訴える強い刺激を好み時に乱行し、浪漫主義的感性を少しももちあわせていない。繊細で、感じ易く、感覚に与える刺激が弱くとも十分に満足している様な人ほど、風流をよくわかるだろうし、道端のコンクリートの隙間から咲く一輪の花のつぼみに感激し、涙を流しているかもしれない。だがそういう人と、都会一般はすこぶる相性が悪く、水と油である。だから都会かぶれは勘違いしている。都会こそ全ての人々あるいは一般人類にとって「何でも有る」と感じる筈だろうと思い込んでいるのは、卑俗で、風流を解さず、感覚が劣後している様な感情鈍磨(アパシー)傾向がある人達だけである。彼らはますます激しい刺激を求め、人的接触の頻度が高い場所をめざし集まってくるが、全員が程あれ不感症で乱れてくらすのだ。この逆に、感受性が高く、細やかに外界から受ける感覚刺激や人の心の情趣を解し、特に感覚性過度激動の傾向がある人――自分も恐らくその一人だが――は、なるだけ感覚に訴える刺激の少ない、できれば穏やかな刺激が得られる場所でなければ不快感しか感じえない。自分には東京生活は地獄中の地獄であった。こうして風流人側からは東京こそ「何もない」場所、死んだ石詰めの墓地であり、そこから得られる刺激はどれもこれも有毒である。満員電車は拷問にしか感じないし、空気は酷くよどんで息もつけない。水は恐ろしく不味く、食材の鮮度も悉く劣っていて毎日まともに食事した感じも得られず、人々は邪悪だ。住居も夏は不快害虫が困るので窓も開けられず、エアコンをつけっぱなしにしなければ夜も暑すぎ体に悪いし、冬といってもコンクリート建築ではどこまでも底冷えがする。春と秋なら少しは生きられたものの(秋は熱放射で不穏なぬるい感じだが)、梅雨の重さは耐え難くその時点で毎年鬱々とせざるをえない。日本の都会人一般及び都会かぶれ全員は、こうして一言でいえば唯の感情鈍磨した無感覚な俗物に他ならない。もしメディアバイアスなどで勘違いし「都会には何でもある」が「田舎には何もない」といった劣悪な妄想を大都市信仰としてもっているとして、一様に愚かな点では変わりがない。感情には良識的なものも含まれている。都会かぶれはそれもない。原発公害で彼らが「無」とみなす、本来最も感覚に対しても優れた刺激の宝庫で、豊かで美しい場所――自然、里山、田園など、いわゆる田舎――を公害で汚してなんとも感じていない。或いは何万年も大量のゴミを捨て、致命的に汚染し反省など絶対にしない。彼ら都会人一般は感覚や共感が機能していないからだ。俗悪な人間達が支配者面をし、権力を乱用する。これが現代日本の姿で、そんな国が人口減少で滅びつつあるとすれば、全世界の人類は救われたというべきだろう。
 善美に向かう資質が全く欠如しているのが、この日本の都会人一般、或いは都会かぶれ達で、彼らには風流の感覚が元からなく、修正できない。

 もしある国で、風流を解する人――決して粋がる人ではない――が政権を長期に渡り維持していれば、そこでは田舎が全有の場所として尊重され、感覚の優れた人々が見目麗しく心和ませる動植物と共存する田園環境とか、あるいは自他に対しても共感性に満ちた麗しい社会を、持つ形で作っているに違いない。だが日本は全然そうではなかった。逆に、長州閥或いは薩長藩閥などと呼ばれる、恐怖政治での侵略、虐殺や裏切りを繰り返す野蛮人達が覇道の担い手を超え長期権力を握り、また彼らを崇めたり美化する事すら甚だしく、特に都会の文物のおよそ全てが、知識人さえ、無感覚な邪道に正統性を与えていた。我々の日本はこの意味で不幸な国だ。単に甚だ不幸なだけではなく、惨めで、救いがない国柄である。
 福島の浜通りの海辺には綺麗な海浜公園があり、私はその崖の上にあったキャンプ場へ、高校の部活で仲間と絵を描きに行った。その風景の美、風のそよぎ、海の青さ、動植物や宇宙の清浄さはこの上ない。崖の上から我々は無限に広がる海原を見たし、そこに咲く花だの、夕暮れにかけ染まっていく果てしなく数え切れない色味に変転する鮮やかな空を、画布に絵の具でぬりこめていた。先輩らと夜中にサッカーをやって遊んだ後で、深夜、公園の真ん中に一人で出て寝転んでみたら夜空に満天の星々があった。だが東京人らはその公園を永遠に出入りできないほど汚してしまった。東京都知事は京都に逃げるつもりの関西人らとつるみながら、というか当時の都知事は神戸・愛媛出身の石原慎太郎だったが、地震天譴論を述べながら、自分達東京の原発が起こした事故に何もなくてよかったなど狂態――但し彼らは元から俗悪なので本音を言っていたのだった。

 もう一度繰り返すが、日本の都会人一般は無感覚・無感動の俗物であり、情趣に関する共感性もそれに伴って劇的に低い連中が集まってくるしくみ――商業娯楽の大量消費が前提の文化作りの為、未来永劫、田舎やそこでの善美なる全要素に理解が及ぶ事はないだろう。つまりこれが日本の最大の不幸である。