2020年10月4日

理想的な喜劇について

関西地方の人達、特に大阪の人達と、僕の馬が合わないなと毎度感じた事のうち、一番そうなのは、なんにしても全部喜劇じたてにしようとする風習が全然合わない、その中でも、他人を傷つける事をいってゲラゲラ笑う、しかもこっちを誹謗してきて笑えとほざくのが気分悪い。総じて下品さを面白がっている
 しかしイギリスの人も、これと若干似た面があった。このイギリス人ってのも実際につきあってみたら実に独特の風習が色々あり、無論どの国でもそうだろうけど、僕が友達になった人はやはりなんでもかんでもユーモアユーモアといって喜劇化しようとする。大阪と違うのは捻くれた皮肉を大層好むところだ。

 僕の感じだと、僕も中学の後半とか高校とか総じて喜劇的情緒の中で生きていたというか、男友達と笑いあう様な事ばかりいっており、日常の殆どある種の喜劇だったといってもいいと思う。少年期の一部って一般に発達心理学的にギャングエイジ(少年団になる時期)の後半とか、大体そうなのかもしれないが。
 けれども、僕が好むユーモアと、大阪人・イギリス人が好むユーモアって、かなり質が違うので、これまた彼らと趣味が合わないなと感じていた。どっちかといえばイギリスの方がまだましだが、一々どこからどこまで冗談かわからない事を言ってきて、無駄に頭使わせられるのが、疲れるといえなくもない。大阪人が好むお笑いって、要は他人を傷つけてプゲラッチョとかいうのと、一人で下品な事をいって爆笑されるとか、はっきりいって凄く下品なだけである。ダウンタウンがその代表格、いきなり山崎邦正だのココリコ遠藤を殴ってナンデヤネンとか全然面白くない。だが当人達はゲラゲラ笑ってて何これとなる。あと、アメリカ人の好むお笑いってのも、一般論だけれども、日本と合わないなあ、大味だなあって普通思われていると思うけどこれも確かである。というかアメリカ製品は、いいのもあるけど結構合わない事もあると思う。お笑いも僕はアメリカの喜劇でいいなと思えるの1個もない。何でここで笑うのとなる。例えばウォーレン・バフェットが株価が下がって今どういう気分ですか? と尋ねられ、ハーレムを前にした若い男性みたいな気分だ、だか、もっと直接的な言い方だったと思うけど、ユーモアのつもりでいってんだろうけど僕が聴くとそこで笑うのはちょっと、としかならない。大味だ、アメリカンユーモアは。
 で、ユーモア大国ぶっているイギリスユーモアだが、これはひねくれまくっててよく考え付く凄いなと思えるのもあれば、単にこれは酷いとなるのもある。後者をバッドユーモア(悪い冗談)といえるだろうけど、直接喧嘩状態になると、僕の仲良くなったイギリス人は悪い冗談連発してきて最早意味不明だった。ひねくれまくってるがかなりの次元に行ってる類だと、サッカーを哲学者にやらせる動画を見た事がある人もいると思うが、ああいうのだろう。イギリス独特の笑いってひきつった反応(苦味)を誘う質が多く、心から愉快だねと笑えるあっけらかんとしたものは少ない。そこが好みが分かれる点かと思う。

 そんで、僕がこれは面白いと思えるものは、大抵、誰かを傷つけたりしないもの、特に自虐系のユーモア、又は、唯の狂人ごっこである。いわゆるピエロ的なもので、これは罪がない。しかも当人が意図してやっているもの、つまりふざけてやっている演技な必要がある。単に馬鹿とか真の狂人を笑うのではない。
 有名な日本のテレビ芸人だと、さまぁ~ず大竹、あとカンニング竹山、辛うじて爆笑問題の太田くらいが、そういう類の笑い――まあまあだけどを作る事が多いんじゃないかなと思う。特にさまぁ~ず大竹は別に変な格好したりとかせず、言葉だけでそういう話芸、というか機知の効いた言い回しするのが巧い。あともう片割れがアメリカ行っちゃったけれども、ピースのコントは、僕がみても面白いと思えるものがあった。特にサッカー少年のやつとか。なんというのか吉本芸人の割に下品な部分がなく、総じて常識との落差を使って喜劇的情緒を演出しており、子供がみても安心できる模範的な内容だったと思う。
 ユーチューバーだとヒカキンは、今みたいに唯の案件ふくむ浪費自慢芸人になるちょっと前は、偶に面白い部分があった。いきなり変顔とかちょっとした変な歌とか挿入するみたいな、おふざけの部分にすぎないにしても。
 しかし総じて僕にいえるのは、ユーモアって人により感じ取る部分が大分違うって事。

 よく大阪人がオモロナイんやとか叫んでいるけど、それってお前が一番面白くないよって話で、要は利己的バカだと周りが自分を楽しませてくれて当然と思いこめているらしく、しかもそれ言うやつが面白がっている事といえばただただ下品なだけというのが普通である。吉本かぶれはそんなのばっかだから嫌い。上品な人は上品なユーモアを好むし、性格がいい人は誰の事も傷つけない機知を好む。この逆に下品な人は下品な格好だけで大爆笑(ココリコ遠藤の「ほほほい」みたいなもん)、性悪は他人だの弱者だのを集団嘲弄して平気でいるわけだ。いわゆるヤクザことダウンタウン浜田の殴り芸とかこの最後のやつだ。それで僕にいえるのは、僕に近い性質の人は、もしくは僕の文化圏(常磐文化圏)に属する人は、一般論ではあるが未来永劫、大阪の吉本的お笑いってあんまり好きになれないんじゃないだろうかと思う。僕らがどういう事を面白がってるか彼らがみたら、多分だが良識的すぎてついてこれないんじゃないか? 僕の文化圏で「ふざけた漫画大臣」とかいえばそれだけで喜劇的な意味になると思う。それでガチギレは少数派で、総じておかしみを覚えるだろうに違いない(但し頭の固い自民党員除く)。なんでかというと普段そういう不真面目な事をいう人がいないから。でも大阪人とか関西人にそれいってもスルーされ、もっと刺激の強い不真面目さが必要だ。

 大阪だったら「大臣さんにもアホの子おりますやん」「誰や、あかんで! そんなんいうたら」「ほら。漫画よんではって、くちばしとがらせて」「それアホの子ガラスやアホ!(頭を叩くバシン)」ゲラゲラとかだろう。あっても。確かに真似ようとすればまねられなくもないにしても、一切まねたくない。

 イギリスだったら「君の国には素晴らしい大臣いるよね」とか言ってきて、「誰だい? 想像もつかない」と尋ねたら、「君の偉大な絵本文化だよ! 閣下」とかいわれて「ははぁ、麻生か。彼は天才だ」「でも君には負けるよ」アハハ、とかなので、一々無駄に知性を駆使させられ、慣れたらいけるが会話違う。

 所が、僕の知る限り、僕が幼少期からくらしてきた茨城北部~いわき圏の日常での喜劇的情緒ってのは、もっと良識的でストレートなもの、もっというと素朴な味わいであり、日常会話の中で「うん。それで漫画大臣がね」とか言っただけで面白い人と判定される。わざわざ過度の技巧とか駆使する必要ないのだ。無論、公人はそういう事いえないだろうけど、市井の民の中でそう言った場合、「漫画大臣って(笑)」と返答が返ってくる事もあれば、ただスルーされる場合もあるだろうし、つっこみなる大阪様式が要求されないのもまた違う所である。イギリス式に更に捻くれた言い回しで、知恵を競うみたいな面もない。

 つまりある文化圏での笑いってのは一種の様式美であって、アメリカだったらこれは大いに受けるだろうな、ってのを言っても、日本では大味すぎてどこで笑っていいか分からない。僕が会話した範囲ではだけど、北欧人達の笑いも陰湿で暗く、イギリスにかなり感覚が似ていた。環境にも影響受けてると思う。僕と喜劇的情緒に関する感覚が大体似たニュアンスかなと感じたのはフランスの人で、総じて知的なユーモアの方が好きなのが似ている一方、フランスの人の方が何につけ適当であった。だからといって僕より遥かに生真面目そうなドイツの人達の感覚もなんか違うなと感じた。あるドイツ人は大阪の笑いをまねていた。
 僕がみたドイツ人の傾向は、総じて日本の右翼にとてもよく似ており、杓子定規に判定してるのかなこの人らって感じで、それと全く違う無秩序な大阪のお笑いを真似ている変わり者がいたんだけども、それもまた杓子定規、そういう事じゃないでしょと僕は思った。自分が何を面白いかって自分の感覚でしょと。勿論これらは国ごとの文化の差みたいなのもあれば、個性間でも幅があるので、偶々その一部をみて全体の傾向を把握しきれない以上、仮説に留まるにしても、大阪人が子供の頃から電車内で漫才風のやりとりしてる式の文化差も厳然としてある。そんな光景は東京で一度も見た事がないし今後もないかもしれぬ。

 僕が知り合ったフランスの人は面白い事とか快楽とかをとても好む人物(女性)で、恐らく知的な刺激も快楽原理に基づいて選好しており、大体、大層自由派で、SNS上でその人が現われると政治的議論または公共の話を吹っかけてくるのだけれども、そんなのを面白がる知識人は日本人側では僕しかいなかった。
 寧ろそんな個性をもった人を全世界でどうにもフランスのその人しかみた事がなく、韓国女性とかわけのわからん妄想恋愛に耽ってること言ってるタイプを除けば、政治的話題にしたって日本での差別にアンチたる立場ばっかりだったし、フランスは公教育が政治面で成功してるというのが確かだと思われた。

 藤原正彦氏とか茂木健一郎氏とかイギリスに留学した。それで彼らのエッセイだとイギリスを大層ほめていて小泉信吉級だけれども、漱石に比べるとイギリス観が大分違う。漱石はロンドンが合わなかった。また今上天皇こと徳仁氏も留学記読むと中立的で、藤原・茂木両氏とはみているもの、日本への郷愁が違ったと思う。僕は環境の変化が大層苦手――茨城近隣の東京の梅雨ですら、北茨城に比べ重すぎ、気分が酷く落ち込むほどでダメだった――なので恐らく留学今後もしないとは思うにしても、少なくともネットで各国の人達と接する機会があったので、心理面での比較文化はできたけど、イギリスかぶれは偏っているといえる。イギリスとフランスは隣国だけど、似た部分(知的風土)と異なる部分(快楽を巡る情緒性)があり、イギリスは暗く湿っており、フランスは明るく開けている。僕がどっちの人達ともそれなりに仲良くなった感じ、気候そのものが違うので両者が今後一緒の国民性になる事は先ずありえないだろうと思われた。皇室はイギリス王室を模範にしだしたと思われ、やたらイギリスに留学してきているが、これもまた、嘗て彼らが中国から中華思想とかろくでもない面までもってきたのと一緒で、イギリス的国民性から負の面まで学んでしまうに違いないと僕は思っている。フランス留学した方がずっと明朗な結果になるだろう。現代日本はこのイギリスという国から何もかも真似てしまいかねない状況であり、特に英国の経済的凋落は明らかなのにアトキンソン氏みたいに金融至上で中小製造業潰せ説を高唱する輩までいる。皇室を巡る保守性も同じだ。ユーモアに関しても暗い面まで学ばせようとする節がある。皮肉とか過度なら嫌味なのに。
 他国から何かを学ぶにあたっては、他の諸国とよく見比べ、その国の良い面だけを見習い、悪い面は避ける様でなければいけない。
 ユーモアの感覚に関しても全く同じ事がいえ、人を傷つけておかしがるという部分は、麻生大臣に対してのも過剰ならそうだけれども、はっきりいって上等な文化ではない。当のフランスでもシャルリー・エブトが或る宗教の聖人を風刺する絵で行き過ぎ問題しか起こしてないのがその例で、ある喜劇的感覚は別の文化圏では通用しない。自文化中心で押し通そうとすると摩擦が生じる。勧善懲悪を目的にした風刺にしても、叩く相手に不快感を与えるものは品性の低いユーモアだ。全ての人々にうけいれられ、誰もことさら傷つけず、しかも優れておかしみがあるのが理想的な喜劇の筈で、その様な善意のユーモアに向かう傾向がもし僕の属してきた文化圏にあるのなら、それは維持されるべきである。この点でイギリスもフランスも、大阪も、別に模範にならないかもしれない。