2020年10月2日

僕がみた東海道沿いの人々の素描

僕はこの国に酷く卑しい人ばかりをみた。多少の例外が1人くらいしかなかった。その意味で日本は、僕の精神に比べると、酷く卑しい国なのだろう。だから僕は日本に合わないし、今後も合いそうにない。もっと合う国があればなるだけ早く移民したい。卑しい仲間に混ぜいられられるのはその下ない苦痛だ。

 全世界を探しても、自分に合う良い国がないとすれば、最もましな国で我慢しているしかない。他国を調べたり実際に移民するお金が十分手に入れば、なるだけ最善の国になるだけ早く移動しなければならないだろう。
 もし初めからここが最善なら、それは地球人類が悪魔的衆愚だと示すだけだ。僕が想像するに、自殺する人達には色々な種類がいるのだろうが、その中には、周囲の人類のあまりの卑しさに嫌気が差した人もいるのではないか。自分は3歳児くらいから既に、程あれそうだった。それから33年たったがますますその実感を確かにしている。日本国はとんでもなく卑しい人達が集まっている。

 僕が呆れ返ったのは、特に京都や奈良の人達だった。けれども他にも程あれ卑しい人達しか先ずいなかったので、釈迦のいう事が殆ど正しいと認める事になった。関西地方に仏教が広がったのは、そこが卑しい人達の集まりだったからだと私は思う。厭世的になり自殺の代わり出家するのが唯一の救いだったのだ。
 僕がネット経由で接した全ての京女達は、全員が例外なく極度以上に性悪で、明らかに凄まじい悪意であれこれ害を為してきた。特に差別的言動がひたすら多く、最悪の場合は濡れ衣まで着せてきて大変喜び上がっていた。――また僕が助けてしまった自殺志願者の或る奈良の女もこれと程あれそっくりだった。それほど邪悪な人々が集まって現に生きている地域がある、というだけで僕には驚異だった。旅行で京都や奈良を訪れた事はあったが、それは表面的にしか現地の人達と接しないし、内情を知る機会はなかったからだ。彼女らの日常は恐ろしい地獄じみた悪魔の世界で、そこで生きていけるとは想像できなかった。
 これとは全然違う性質の人も色々見た。埼玉の或る女性とか、それら僕がみた京女達と同じ生き物とは思えないほど性格がよさそうで、僕は寧ろ関西地方で現に我が物顔で繁殖中の恐ろしい性悪どもにそういうまともな人間がもし接触しようものなら、今後も生きていけるものだろうかといぶかしんでしまった。

 中部地方の人達は、京阪神と東京圏という2つの大都市圏の中間地帯にいるので、この両極に引っ張られる形で種々の影響を受けていた。僕が一番驚いたのは、或る長野出身らしい愛知人が、東京が上品だと思い込んでいた事だった! いうまでもないが東京は東日本の大阪みたいなもので、下品の極みなのに。その愛知人はオバサンで、色々重い病気を患っているらしくもう命は長くないらしかったが、愛知ではありがちな話らしいが凡そ一度も、愛知県の外に出た事がないみたいだった。それで東京をテレビ経由でしか知らないみたいだった。現実の東京の有様、スラム的現実をもし、彼女が知ったら卒倒したであろう。僕が現実にみた東京は、少なくとも23区内の都心部は、道端で裸になった泥酔男が寝ているわ、詐欺だの淫行勧誘罪だらけだわ、そこらで娼婦の写真撮影しているわ、雑踏で倒れている青少年を誰も助けず何千人も素通りしているわ、サラリーマンが平気な顔で新聞代けちってゴミ漁りしているわ酷い有様だった。他の中部地方の人達も、このオバサンと多かれ少なかれ似た様な偏見をもっていて、要は東京のマスメディアに完全に洗脳されていた。そして中世皇室みたいに田舎を蔑視し、都心を妄信的に崇めていた。その大都市スラムの中枢には奈良発の大量殺人邪教祖が住んでいて、彼らを上品の極みと思いこんでいた。

 僕がみた全ての愛知人にはある風変わりな特徴が共通してあって、総じて商売信仰に近い志向をしていた。この点では大阪からも大変強く影響を受けている。大阪の人々も僕が接した限り全員が激しく金銭を崇拝していたが、愛知の人達のそれは商売自体への信仰であり、一層その程度が根深い様に感じられた。僕は商売が好きではない。それで愛知の人達とは、似た様な商業地区である東京や大阪にも増して、全く気があわなそうだった――東京の人達は幾ら商業的とは言っても、例えば漫画家のようそれが変形しているとはいえ少しは例外の余地があるし、大阪人は貰えるもんは貰とけ式に生活保護でもいいと考えていた。愛知の人達は子供の頃から、徳川早春の影響なのかトヨタの影響かしれないがやたらと職業、特にその商売的側面を誇る様に過度にしつけられているらしく、手に職をつける資格をとりたがる傾向などもそこからきているみたいだった。要は大阪でも東京でもない独特の商業都市で、人生観の寛容さが大変低い。或る愛知出身の元アイドルタレントが、ネットテレビで東京の「プロ奢らレイヤー」とか称する一種の乞食をゲストとして招いた際、泣き出したのを僕はみた。その愛知人は職業に生涯をあてはめるのが正義だと幼児からしつけられていたに違いない。全くその対極の倫理観の持ち主を侮蔑しているみたいだった。他に、或る長野の女が、東京人だの京都人だのを一般化し謎に偶像崇拝していて、その両方に酷く裏切られているのもみた。これは必然でもあった。東京23区だの京都市街地だのは犯罪率も十分に高い都市部だし、一般に悪人との遭遇率が高いので、そこをテレビだのみて上品だと勘違いしてるんだからそうなる。ある静岡のオバサンも、或いは富山のオバサンも、中部地方の人達は、この点で共通性があって、一般に東京の嘘だらけの都会を美化・田舎差別したテレビ番組だけ見て全てを判断し過ごしているらしく、上品なものを田舎発なら下品だといい、下品なものを都会発なら上品だと勘違いするほど暗愚な風習だった。長野出身者がその中部的な妄想をアニメ映画にしたのだろう『君の名は』が、驕り高ぶった虚栄心の激しい東京人に好都合な妄想として受けたのも、一種の必然だったと思う。東京人一般は自分の落ち度を指摘されたら「嫉妬か」といって合理化に耽るし、逆にお世辞されても無限に中華思想的自己愛妄想に耽る。
 これらが僕が東海道沿いでみた日本人なるものの実に残念すぎる愚かな有様だ。それは醜悪でみるも穢れる状態だったが、当人達はその種の典型的現象が日常で、また当たり前だと思っており、なんとも感じていないみたいだった。
 僕はこの意味で東海道沿いの世界が普通に気持ち悪くて好きになれなかった。