2020年10月20日

なぜ日本の大都市部や僻地などには、都会崇拝・田舎差別する者がわんさかいるのか、その逆に自然や田園を尊ぶ貴族精神に照らした分析

 大体、次の様な傾向があると思う。
 先ず、総じて卑しい品性の人達は都会を好む。特に、商業施設とかビル街をやたらと好み、それ以外を「何もない」と言う。これは東京都、横浜市、大阪府あるいは西日本の僻地とかの人達をみると、総じて明らかだろうと思う。テレビをみて憧れたり自己愛妄想している。

 逆に、貴人は総じて田舎を好む傾向がある。これも自分が諸々観察した限り、ほぼ確実にいえる事と思う。特に山林とか土地は直接所有できるので、相当の貴族は自分の森とか、そこに別荘を持っている。
 因みに成金と貴人は全然違う。成金は都心のマンションとか欲しがるが、貴人はそこに価値をみない。

 色々理由はあると思う。
 恐らく花鳥風月を楽しむという心の余裕や、感性は、恐らくだが、経済的にゆとりがある側にしかないのだろう。僕が知る限り、茨城県は経済的に豊かなので、茨城新聞の茨城文芸とかで本当にすばらしい自然美とか、田園生活の感動を詠んだ永久に尊ぶべき歌、俳句が毎週沢山載る。イギリスには田園詩人というのがいて、ワーズワースから浪漫主義という文脈を持っているわけだけど、イギリスの画家とかも、ターナーはじめ大抵、風景画が中心だった。風変わりな近代主義者達は別の物も試したけど、総じて茨城の趣味と似た様な部分があるというか、花鳥風月ではないが自然美を謳う。

 皇族の歌も、心理を除けば大抵が自然への感動を歌ったもので、僕が特にいいと感じたのは次の2つ。今上天皇の中学時代の思い出と、文仁親王の牛津の朝霧の思い出。

朝まだき十和田湖岸におりたてばはるかに黒き八甲田見ゆ

冬来たる牛津(オックスフォード)の朝にしてきり深く動き晴間一筋

皇族が日本有数に綺麗な高原地帯といっていいだろう那須に森ごと別荘をもったり、こっちは僕は見た事がないが海辺にも別荘をもったりしているのは、単に歌とか生物学の研究で証明されているだけではなく、自然への感受性を持ち合わせている証拠だろうと思う。ブルーギル放流はいただけないけれども。

 で、なぜ日本の一般大衆のうちでも、卑俗っぽい人、というか俗物ほど、やたらと夢中で都会都会といって、逆に田舎とか自然を「何もない!」「ダサい!」「田舎臭い」とか、僕には本気でなに言ってるのか訳のわからない言動で、不躾に田園・里山・大自然の地帯やそこの暮らしを差別しまくるのか。僕はこの謎を解く為、研究を重ねた。
 大体そういう言動を初めてみたのは僕が10代後半頃に出てきた2chとかで、関西人、特に京阪辺りの人がいってるっぽいなと感じだしてから、ネット中にうわっと同質の言動が蔓延しだし遂には東京人・横浜人とか千葉人とか中部人とか、一斉にまねだしたみたいだった。

 しかしながら自分ちが庭付き一戸建てでその庭も四季折々の花が咲くとか実が生るとかの上に、周りも春にはつくし、たんぽぽ、オオイヌノフグリや菜の花、夏にはひまわり、秋にはススキ野原、冬には銀化粧で、森・林・湖・清流・川・砂浜・海に囲まれていると、「有る」とは即ち自然の事なのである。
 それで、田舎で生まれ育っていると自動的に自然に対する感受性はセットされる筈なのだが、僕がみた感じこれはどうも、田舎生育の人達でも全員が帯びている特徴ではないらしかった。一部の田舎の人達はなぜか意味不明な自虐の様な事をいい、やはり京阪・東横人みたいに田舎に何もないといいだすのだ。皇族は田舎に最低2つ別荘もってる上に皇居の中も、人工的ではあるがかなりの規模の自然らしさを帯びた庭があるみたいなので――この点では、人工度が高くろくな庭がない京都御所より今の方が住宅環境はいいだろう――別として、都会人は通例、田舎にある自然に対する感受性が完全に死んでしまっている。又吉という大阪出身の沖縄系の東京人いるけど、この人が、コンビで相方の綾部の実家の方(壮大な穀倉地帯にあたる古河付近)へ案内したら、彼の懐かしがる果てない田園風景を見て「くさない?」とか言っていたらしい。
 肥料を知らないだけでなく、そもそも生産風景やその豊穣さに何の感覚もないのだ。僕の知る限り、いや、くさいのは大阪の道頓堀でしょ。東京の雑踏だの、川でしょという事なんだけれども。東京の川は、大抵は一応塩素消毒してるけど下水を流しているので、本当の話、臭い。でも東京人はそれが当たり前と思っていて清流を知らない。どぶを川だと思って産まれて生きて死ぬのである。
 日本中の大抵の川というのは、清流であればそこに入って遊べるだけではなく、水を飲める。しかも川魚が泳いでいる。一言でいうととても綺麗で清らかである。
 しかし東京人は、そういう川がこの世界にある、と知らないのである! これは嘘ではない。或る東京生まれ東京育ちの町田人がいっていた、「川なんて危ないから近づかない」と。そりゃ東京ドームの横に流れてる渋谷川みたいな、凄く深い側溝の底に流れてる、あいみょんがMVで流されてる、現実には凄く臭くて落ちたら確実に病気になるガチのどぶが、川だと思ってりゃそうだろう。下水五輪なんて発想するわけである。選手が憐れで仕方がない。結局、卑しい人達は、体験価値の欠如というのがある。別の言い方をすれば、感覚資本の欠落である。特に自然体験・農業体験の類が決定的に欠けている。工場見学くらいなら辛うじてするかもしれないけど、それだって希だろうと思う。でも生産地だと普通に校外学習で、上記の事は小学生とかでやっている。

 じゃあどうして貴人・貴族の部類は、この逆なのか。答えとしては子供の頃から、別荘とかで幼児から色々な自然体験を積んでいるし、しばしば自分の農園まで持っているのでそこで農業もやっている。そうでなくとも成金を除く上流なら、相応の庭つきの家くらいはあるので、四季を感じるゆとりくらいはある。小泉父と安倍晋三の格差社会づくりで、ますます中流がずりおちた。そうするとますます貧困になって、下級の単純労働先――大抵は過労前提のサービス業、いわゆる竹中平蔵が噛んできた派遣など――が多い都会に人が出てくる。負のスパイラルで、東京人は更に自然に心和ませる余裕がなくなる。結果が田舎差別。田舎を「何もない」「ダサい」と言っている人達というのは、こういうわけで、感覚資本・体験価値が欠如した、文化的貧困層なのだ。皇族とか典型例としてこの逆の大資本家なので、別荘に毎年何度も行って森や海辺を散策しどんぐりや貝殻拾ったり、色々な生き物と戯れたり、写真撮ったり、絵でスケッチしたりしてるだろう。

 和歌の最大の伝統は、恐らく恋の歌だと思う。これは詩という分類でみても、太古から日本が特別に傑出して多い。しかし次が、特に万葉和歌にみられる自然描写である。こちらはさっき挙げた田園詩とか遥かに超えて、尋常じゃなく豊富な実績がある。自然を歌う感性で世界で一番豊かなのは日本の詩人である。例えば、かえるの鳴き声だけを並べた草野心平の詩とか、まじで他の国でみた事がない。次の様なのだ。
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
これを歌える詩人が日本以外のどこにいるというのだろう。天才の中でも凄まじい素朴さの次元にいる。擬音語の世界自体が朝鮮語くらいしか似た例がない。だが擬音語だけを並べるにしても、かえるの鳴き声を模して、るうるるとか少しは調子をかえてみるとか、ゲコゲコとか典型的なのではなく、るだけを20個並べて、これが詩ですぞ、とか、発想が純田舎者でしかない。僕はいわきの山奥にある草野心平記念館まで行った。しかしあそこでしか生み出しえない詩だ。
 俳句でも少しでも都会かぶれていたら、もう大抵ダメである。
「古池や蛙飛びこむ水の音」
これは世界一有名だけど、まだぎりぎりましな方だ。
 一番ダメな俳句は純都会人の漱石のやつ、大抵が滑稽味を狙っている。それって川柳っていうんですよ。
「菫(すみれ)程な小さき人に生れたし」

 漱石は自然への感受性が死んでいた。彼の感覚できたのは、飽くまで自然の本の一部の出来事で、特に縁側で日が照ってきたなとかその次元だったのだ。他は全部、人間の俗事で脳がうずまっていたに等しい。彼の小説は大体がそういう描写で、僕が読む限り、文体は立派だけどうんざりする内容しかない。

芥川も大体、漱石と同じ筋の滑稽句が多いのが有名。
「青蛙おのれもペンキぬりたてか」
僕がみた感じ彼の句で一番、有名な上に完成度が高いとみなされてるのは次の元旦の午後の、日本人なら分かる~的心理を歌ったものだ。
「元日や手を洗ひをる夕ごころ」
要は彼も田舎的感受性は閉ざされていたのだ。

なるほど貧しい所にも芸術が生まれる
ただ、それは貧しさの芸術になる
東京都心の超高層マンションを買う
それって一見すると成金GOGOにみえるけれども
実態といえば、「いやいや。同じお金で山買ってるヒロシの方がかっこよくない?」となってくるし
現にそれをして別荘つきが通常貴族なのである

別に別荘なんて作らなくても
ヒロシみたいにそこでキャンプする方がよっぽど賢いのかもしれない
なにせ縄文人はそうして暮らしてきたのだ12万年も
その間彼らが体験していた自然への感覚は、
満天の星空だ~とかその程度のシティ野郎が感得するものなんて遥か超えていた筈だ
夜に鹿の足音がするとかだ

結論書くと、人類のうち、少なくとも今の先進国では大体2種類の感受性の傾向があって
1つは、貴族的レベルの人達がもっている大変豊かな自然体験を前提にした感覚価値の世界である
もう1つは、いわゆる通俗商人とか成金とかの限界として、全て都心のコンビニ・スーパーと自宅往復で完結しているもの。

 我々は感動する、という体験がある
この感動体験は、はっきりいって、自然体験が全ての中で一番高い物だろうと思う
自然体験をした事がある人は皆知っていると思うけれども、
そもそも我々の体というのはどこかに差し障りがなければ五感を持っていて、自然に対して適応しているからだ
だから清流で泳ぐとか森の大雨とかで感動する。

そしてお金がなくて貧しい人達は、残念ながら、
今の資本主義のしくみだと、東京などの大都市部で労働者になる宿命が待っている
それは満員電車と呼ばれる奴隷輸送船で毎日職場に送られ
そこと自宅を往復し続ける一生で
帰った家というか部屋も監獄みたいに狭く、出来合いの食事をくらわせられ寝る

一方、金が当たり前みたいに余っている豊かな人達は、
先ず以て、そういう労働に追われる事がない。
代わりに色々な体験価値を積む。
夏には森の別荘に行くわ、海だの清流だので泳ぐわ、
そもそも庭も広いわ、そこで連日色々なガーデニングを楽しむわ、
農園で自分の好きな野菜とか育ててサラダ食べる

貧しい人達は総じて都会が大好きで
そこで成金になる事が目標と、洗脳されている。
成金の最終目的は億ションを買うという不動産業者の唆しのままの人生設定になっている。
そのマンションでどうするかというと自殺とかする。
芸能人が最近よくそうしているけど、正にあれが踊らされた末路と思う。

なんで成金になれたのに自殺してしまうのか。
だって超高層マンションなんて買ったところで、
そこに別にいい人が毎日集まってくるとかない。
というかわざわざセキュリティ厳しい高い所に人なんて来ない。
毎日寂しいし、見えるのも同じ冷たい都会の夜景だけだ。
死にたくならない理由がわからない。

単にもっているだけでカネが大量に流出していくし、
賃貸で借りていてもやはり似た様な感覚になる。
虚栄心だけが満たされる。
その虚栄心を狙って販売攻勢しかけてるのだ、不動産屋は。
マンションポエムをよく読んだらいいですよ。中身とか空っぽだから。
馬鹿を釣っているんですね。金儲け目的で。

天皇は田舎に別荘を複数持って、山林まで保有している。
そしたら自殺とかわざわざ超高層マンション買って、その上の方でやらないでしょ。
疲れたら庭出て、木陰で本でも読んでたらいいんだもん。
そしたら詩でも手帳だかスマホだかに書いたらいいんだから。
それが世界中の貴族が通常やってる事だ。

成金とは何かといえば、
貴族のなり損ねで、間違った隘路に入り込んでしまったが、貧しい時点から一代で金儲けした人達なのでしょう。
もし正しいルートを辿れていたら、貴族の世界にこれたのだ。
そしてその貴族界だと、都会崇拝とか田舎差別と真逆の事をしている。
山林買って保護しているのである。

日本が山国だとはわが国の地理を勉強してたら皆知っている。
その山が禿げてないのは、持ち主達に良識あるからかもしれない。
多摩丘陵の持ち主達は、開発業者に唆され、簡単に手放してしまったのだろう。
彼らはカネを手に入れたが、代わりに将来の廃墟を作った。
たぬきの住みかを奪い、自然も大規模破壊した。

一番典型となる話で終わる。
或る茨城北部の山あいに、日本政府がゴミ捨て場を作るという。
いかにも東京人が考えそうな発想で、
田舎とか自然とかを「何もない」としか感じない無感覚な自然体験資本0に近い貧民出の官僚が指揮していた。
ところが、この国有林のすぐ隣を、実はある貴族がもっていた。

そこは茨城県民の中でもかなりの学者しか知らないかもしれないけども、
のち最後の将軍になる貴公子が子供の頃に、兄弟と山登りして日立の海を眺めるなどした、非常にゆかりの深い徳川山林だったのだ。
当然別荘も、日本政府の浅はかな役人が、福島で出た核廃棄物の埋立地にしようとしたすぐ隣にあった。

それで水戸の徳川家が政府に文句を言った。
僕がいっても説得力ないかもしれないけれども、水戸の徳川家ってのは本気で怒ると村をまるごと虐殺してしまった様な過去をもっている恐ろしい統治者である。
そしたら政府役人は考え直しますみたいな感じで、あっという間にゴミ捨て計画を撤回してだんまりだ。

これと逆の事例が色々囁かれている
北海道の土地、山とかを中国人が買い占めているとか
中国人がなんで北海道を買うか? これは東京人が億ション買うのと同じ発想である
要は見栄を張れるから買う
全く発想が成金そのもので、「俺日本(の一部)もってんだぜ!」っていいたいのである
どうせ使わない

まあ中国の成金が立派な人とか、殆ど考えづらいわけで
詩人とかならまだわかるけれども、大半が別に学者貴族でもなんでもないだろう
だとすると、北海道は荒れ放題となるであろう
そのうち訳のわからんゴミ捨て場にされたり
中華街だらけになると予想される
既にニセコのスキー場とかある種そうなのかもしれない

徳川家って複数あり、家ごとに色んな個性があって
僕がみる限り宗家の方は絶対権力志向
水戸家は尊王の学者
尾張家は金儲け
紀州家も権力志向で血統主義だった、みたいにかなり違いがある
我々だって親戚の家ごとにかなり違うのと一緒だ
そんで、僕がここでいってるのは飽くまで水戸の徳川家だけの話

水戸の徳川家は、日帝の中で他の二家より出世して、
宗家・慶喜家と同じ一応最高位の公爵だったけれども、
他の通例の貴族と同じで、国(県、封土・領地)を持っていた過去がある
それでこの茨城北部の山林は、その名残なわけである
イギリスも田舎に広大な田園や山林地が広がってるのは同じ理由と思う

封建領主は、一般に荘園といわれるが
日本でいう大名の領地をもっていた
ここでいいたいのは、なぜ貴族が自然や田園を尊ぶ傾向が残っているかといえば
特に、この自分の国に対する愛惜心なのである
最も典型的なのがチャールズ皇太子で
とかく彼の形式上の領地にあたるウェールズを含め、郷里を尊ぶ

際限なく宅地開発したり、やたら虫食い式に商業地区を作ったり、
東京・横浜の庶民が好む類の「何でもある」という、
僕には意味がわからない俗な物の見方を、嘗ての封建領主もやはりしない
彼らがやるのは基本的には、古きよき風景の維持だ
ところがこの考え方を、都会の俗人は永久に理解できないのだ

「何もないw」「田舎臭いよ!」「糞ダサいw」とか、「遅れてる!」とか東京・横浜のどう見ても下品な連中が、
しばしば群れながら、田舎全般を罵倒しまくってくるとかよく経験すると思う。
貴族との違いを両者のおかれている資本背景の違いから大体説明したと思うが、つまり都会の貧民は心が貧しい

余りに貧しいと成金を目指す。
だから東京・横浜の過半数の人々、
いってみれば労働者の人々は、一様に、都心に億ションを買う様なくらしを夢みている。
これを彼らは「セレブ」といっている。
英語では名士という意味だが、カタカナ英語では意味がずれ、成金の芸能人という意味で使われている

本物の貴族は基本お金に全然苦労しない状況がかなり長期に渡り続いている。
系図に見られる何十世代とか、ほぼ一貫して、超絶金持ちかとは別に、かなり上々の裕福さが続いてるとかの人達である。
そうすると最早、成金とか何の目標でもなく、へえ~としか感じない。
代わりに雇ってる領民を思う。

封建制の元では「御恩と奉公」の、忠義関係が結ばれる。
これは貴族が領民を思いやる事から出てくる。
大体、いつまでも自分の暮らしを維持するには、最低でも領民を雇い続けねばならないんだから、考えざるを得ない。
領民の方もあるじに愛着が出てきて、なんとか期待に応えようとしだすわけだ。

落ち着いた田園風景があってそこで生産される食物をもらうとか、
自然の山林とか河川とか、広大な原野があって、それを眺めて楽しむだけでなく自然体験の価値を得られるとか、
大体、貴族の楽しみとか、こういう部類のものが多い。
工業を興したり、商業地を開発とかもやるけど、大抵の貴族は消極的だ。

貴族が一般に商売をあまりやらない理由としては、結局、次の事がいえると思う。
貴族性は、実益を離れているほど浮世離れした上品さの証拠になるからだ。
金儲けに耽っていたら成金となんの差もないし、
工業も、庶民の日用品より、
ただの装飾だったり、詩みたいに実益がない純粋な芸術の方が好まれる。

世界一の金持ちになってから慈善事業で一生終える米国起業家みたいな方向に、貴族一般は行かない。
それ以前にラットレースから半分降り、実益がない、自然保護とか芸術振興とかに進む。
だから貴族は貴族で成金とは違う存在になりえたのだ。
自然を尊ぶ心って、結局、この貴族の精神の一部なのだろう。