2020年10月3日

『源氏物語』みたいな乱倫小説がなぜ書かれたか、或いは常陸・水戸文化の性善的な勧善懲悪傾向との違い

ある奈良人をかなり深く観察して、自分は遂になぜ『源氏物語』みたいな乱倫小説が、京都や関西一帯で崇められてきたかその理由が解き明かせたかもしれない。
 その奈良の人は、両親は島根や九州から来ていると言っていたと思うが、ある特徴があった。それは見た事がないほど徹底したエゴイズムである。

 他の関西地方の人々も色々みてきて、その奈良人に感じる強い違和感から、遂に僕は悟った。
 中世京都界隈の平均的な共感性の低さが、あのエゴイストだらけの悲劇を書かせたのだと。今でも関西地方の人々が似た状況に置かれたら同じ行動をしかねない。実際その奈良人(女)は僕を恋人がいても誘惑した。
 その奈良女は、僕の恋人がある事で傷ついたと教えたら、大爆笑しだした事もあった。これも全く不可解な言動で僕は物凄く文化衝撃を受けた。
 誰かの恋人が傷ついたと報告されてそれに対して爆笑するなど失礼とか超えて人でなしの様な言動であり、その後もその奈良女は全く謝罪などしないのだった。京都が今も長年いじめ最下位(一番いじめ発生率が高い)なのは、あの地域の人々が一般に強度のエゴイストで、いいかえれば共感性が相対的に低く、総じて他人を傷つける事をなんとも感じないからなのだろう。実際そういう性質の人達、特に京女を僕はSNS上で複数みた。彼女らは嫌味や差別を好んで言った。そういうエゴイスト全開風土の小説家が、素で書いたのが『源氏物語』で、要はあそこの登場人物らが誰も他の女に同情したり共感したりせず全員、自分の事しか考えていないのも、主人公ら男性陣も全員がそうなのも、紫式部という人自身が、強度のエゴイストだったからなのだ。つまり典型的、京女。超性悪。
 紫式部は『日記』で清少納言への陰口をまきちらしているので一般にも性悪と考えられてきたが、その極度の証が、登場人物らが全員エゴイストだらけで、虫みたいに乱倫三昧しているあの異様に野蛮な世界だったのだ。京都人が一般にそれを美化してきたのは、当人達も同程度のエゴイストだからに相違ない。
 本居宣長があの乱倫ポルノを読んで大感動したり、それを小林秀雄だか今生きてる人では茂木健一郎氏だかが褒めそやしているのもまた、彼らもエゴイストの資質が激しくあるからなのだろう。それであの強姦、強制猥褻、近親相姦、それらを気に病み自殺未遂など女を虐げまくる野卑な皇族ヤクザを美化する。

 僕は生まれも育ちも彼らと全然違って、激しく性善的な資質に恵まれていた。それで関西人さんたちの間では大評判の『源氏物語』読んでやっかと思ってはたちくらいのころ読んで大ショック受けた。それは負の衝撃であり、なんでこんな野蛮人どもの残虐極まる非人道な姦淫ポルノを褒めそやしているのかと。『源氏物語』の特徴は内容が下賎極まりないのと対照的に、文体そのものは相当に巧みな修辞や、豊富な語彙、劇中で挿入されるそれっぽい和歌の一見上品ぶった演出を駆使してあり、実に流麗な事である。しかしやっている事といえばどれもこれも姦淫、しかも不道徳な猥褻や強姦だらけと、到底受け入れ難い。それで文体の方に読みながら一瞬騙されかけたものの、酷すぎる終幕――ゲスな京都男こと皇族に強姦された田舎育ち女が自殺未遂後、出家。がまたゲス皇族に軟派される――で次第に冷静になってやっぱこれはダメだなと気を取り直し、この後も僕はなぜこれを褒めている連中がいるのだ? と全く不可解だった。

 でもっと大人になり、現実の性愛の諸相がどうなってんのかという事も大分見知った後で改めて思うのは、『源氏物語』はやはりとんでもないゲス女が書いたゲス小説という事である。これが未来永劫、変わらざる真実であろう。特に或る奈良女の性格を具に見て、僕は悟った、ああこういう奴が書いてたのかと。その奈良女はなんでもかんでも利己的にしか物を見れない。それで僕は初めから猛烈な違和感を感じたし、当人も僕が行けといったわけでもないが一応精神科とか行ってみたらしいが、診断は醜形障害とかいわれたらしい。しかしそれが問題なのではなく、物の見方が凄まじく利己主義的だった。自己愛の権化だ。僕はそこまで利己的な生命体が、ヒト界にいるなんて想像もしていなかった。利己的というのが分かり辛ければ、要するに思いやりが全く無い。僕が0歳から30代半ばまでみてきて、見た事ないほどその奈良女の言動どれもこれも自分の事しか考えてないのかとしかいえなかった。いわなかったけど。気を使って。それでさっき僕はふと悟った。あーこれかと。紫式部はそういう性格をしていたのに違いない。もしその奈良女が小説でも書こうものならやはり、全く似た様な、エゴイズムで徹頭徹尾埋められた何かを書いたに違いないからだ。イケメン連発発情発狂とか凄まじい下品さも紫式部そっくり。関西弁の品質も酷い。なぜ本居宣長こと京都で町医やってから三重に帰ってきたやつが、京都かぶれになってあの乱倫ポルノを褒めだしたかといえば、要はその思いやり0、どころかマイナスのエゴイスト冷酷無慈悲な野蛮都市での、身分差別に慣れてしまったからなのである。女なんざどんだけ強姦被害うけようがいいと考えたのだ。僕はその本居の説自体も理解できる。だってその奈良女を考えると、いや~こんな性悪に人間性とか認められないでしょ、と正直思えてくるのだ。まともなヒトと呼ぶには余りにたちが悪い。いう事なす事、チンパンジーより悪質で、下賎で、毎度吐き気しかしない。しかも性嫌悪障害とかほざいて自殺未遂する。逆にそこまで狂ってると同情心も湧かざるをえまい――但し、それは僕が善良な生まれ育ちだからで、少なくとも僕がその女から聴く所では、関西圏の人達はどちらかといえば、その奈良女を、正に『源氏物語』の中でそうしてるみたいに非人道的に扱っていた。要は交尾相手として一時の道具としかみていない。けれども、その奈良女は、生まれも育ちも関西なので、その関西圏都市部(大阪・神戸圏)の彼女をとりまく野卑な日常が「この世の全て」だと思っていた。僕が「いや、それそこだけだよ」「東日本なら東京圏もそんなだろうけど」と教えても、全然信じないというか、理解できないらしかった。関西の限界だ。その奈良女がいうには大阪でも神戸でも電車乗るたび確実に痴漢されるらしい。悪名高い東京ですらそんな場所あるとは思えんし、嘘ついてんのか知らんけど、もしそうなら大阪や神戸の電車は今すぐ亡ぼすべきに違いない。東京圏だと埼京線くらいだろう、その種の悪い噂あるのは。それでも流石に毎日はない。だが僕は初めこそその奈良女に同情していたのだが、段々と意味が分かってきた。異文化理解というやつだ。関西圏の人間はどうもその女の説明では、一人の例外もなく利己主義者で、誰もがその女にそういう道具としての扱いをしてきており、しかもよくみると、その奈良女すら他人をそう扱っていたのだ。その奈良女は、毎日のようイケメンがどうちゃらといって発情発狂じみた事をほざいたり、男性を見た目でしかみていなかった。僕がそういう事じゃないでしょ、心の価値の方が人って大事でしょと言っても、本気で全く理解できないらしかった。完全に異民族、異なる種族の生き物としか感じられなかった。もう一度いうが東京は江戸を作るとき関西人が大量移民してきてから、東日本というより関西の殖民地みたいな場所で、明らかに他の東日本とは似ても似つかない。神奈川もそうだけど、東海道の通り道だから。でもその東京ですら、その奈良女が語る様な世界ってみた事がない。人を道具としかみない文化って。つまり関西地方って、飛鳥時代あたりから元々渡来人の集住区だったわけだけど、そこの文化は今も昔も全然変わってなくて、その総合小説じみた結晶体が『源氏物語』だった、といっていいのだろうと思う。だって今も他人を道具としか見てないらしいので。その奈良女の日常の話が現実なら。思いやりが0。大阪出ダウンタウンとか平気で他人を殴る、吉本芸人は他人を傷つけゲラゲラ笑う下品な喜劇ばかりするし、大阪人一般なんてそれを子供の頃から真似てこっちからみたらドン引きするほど品性下劣なだけでちっとも面白くない話をしている。その奈良女もそういう下品な笑いが大好物で、完全に関西化していた。大阪だの神戸だののその奈良の一大学生の目からみた日常描写の数々を聞いた感じだと、はっきりいって平安時代から何の変化もないのではないかと思わざるを得なかった。封建時代のままだ。その奈良女も親の教育観がとうに時代遅れで大卒OLで社内恋愛結婚し子供生めそれ以外アウトとかだし、全体が古い。そもそも京都人は普段から自分らが中世人だという事を誇っているくらいで、首都が東京になっていると認めない。都市規模は広島や北海道以下で天皇もいないのに奠都に過ぎないとかいって、まだ首都面している。これも結局天皇とか関係なかったのだ。単にエゴイストの集まりだからいつまでもそういってる。自称天皇の気が狂った大量殺人事件を南京くんだりで起こしても平気の平左で象徴の座に収まってる古代奈良発の暴力団一門も、これまたエゴイストの極みというべきである。身分制の差別なんざそもそも余程性悪でなければやりえない。そういう人達が支配者面で居座れただけあるのだ、関西地方って。大体僕が人生全体で謎としてきた殆どが解けた。なぜ僕が関わってしまった京女どもはあんなに極悪だったのか? 彼女らは共感知能が極度に低く、思いやり値がマイナスの性悪だからだった。そして『源氏物語』を僕がこれは酷い、褒めてるやつは馬鹿かと感じた原因は? 性悪系の類友封建小説だからだった。『源氏物語』ほめそやしてきた自称文学者連中だの、本居宣長だの、その女性蔑視じみた皇族ヤクザの封建性を真に受けてる小林秀雄・茂木健一郎両氏だのも、総じて、性悪カルチャーに共鳴してる位なんだから、共感性の低さに関しては同類である。どう考えてもヤクザの被害者でしょ。登場人物の女性ら。

 その奈良女も、成程、随分ヤクザなやつであった。それは初めから終わりまでそうだった。生まれも育ちも悪い為、倫理観がない。当人は驕って自分は生育がいいとか誇ってたが、その人の日常で僕は悟ってしまった。そういう女ばっかだったら、関西人は、ヒトをヒトとも思わなくなっていってしまうのだ。
 ヒトがヒトを目的としてカントがいう通りに扱い、しかも尊厳をもつ者として敬って接する社会がある。少なくとも僕は総じてそういう社会にいた。所が、僕は現実でも、やはりろくでもねーやつらに、東京で会った。そいつらはこれまた関西人、奈良や大阪からきた無礼極まるゲス講師だったのだ。美術予備校にいた奈良男は、これまたその奈良女とそっくりで他人を初対面で罵倒したり、礼儀作法がなってないとか超えて思いやりが皆無だった。偶然の一致にしてはできすぎているというか、僕がかなり身近に接した奈良人はその2名だけなので、奈良のミームなの? としか感じなくなってしまいかねない。そんでその美術予備校にいたコケシみたいな京女もこれまたカラオケでみんなが疲れて寝てたころ嫌味の歌を入れてくるとか性格の悪さ、陰険さが凄まじかった。またまた~偏見でしょといわれるかもしれないけど、本当だからしょうがない。僕が全人生で見た中で京女とか京都人だけ、そこまで陰湿な事するの。ほか、専門学校にいた講師の大阪男は、二軍やな! とかいってできのいい男子生徒をみせしめにし虐めるとか、逆に下心でギャル女だけ褒めそやしカラオケ行ってウェーイ自慢とか、権力乱用しまくっており、僕はある時その講師に虐められてた女の人をかばい、遂にきれ校長に直談判までしてそいつを倒した。これらのろくでもない人格の劣った連中って、僕が都内で会った中で、これまた不思議な事に、或いは事実として当然そうなだけなのかもしれないが、関西地方、具体的には京阪や奈良から出てきた人達だったのだ。単に彼らの性悪前提の文化と、性善的で勧善懲悪(勧懲)が当然の僕の世界とは風習が大幅に違うのもあるが。僕が生まれ育つ中では、授業中アメリカ人のまねしガム噛んでただけで中学教師が水戸黄門みたいな討伐行為をしてきたり(因みに体罰入ってたので今の価値観からしても当時からしても絶対アウトだと思うけど)、勧懲が当然でしょ、みたいな雰囲気があった。それと東京圏に移入してた関西人ってまるで違う。で。結局、僕が京女だのその奈良女だのとまるで馬が合わないのは、この性善系勧懲主義の僕の文化と、京都・奈良界隈での性悪系冤罪主義の文化とは、何から何まで違うからではないか? 徳川慶喜は完全に僕の属する常陸文化から呼ばれて、京都文化で極悪の性悪どもに濡れ衣着せられた悲劇の人物といえる。もし慶喜がずっと水戸の殿様だったら、絶対あんな酷い目に遭う事はなく、単に大いなる賢君として崇められ、立派な業績、特に近代化実績をあまた残していた事だろうと思う。実際に将軍後見としても将軍としてもそうしたけども。でも要は京都とか関西に呼ばれても絶対いかねーといって断るべきだった。僕は遂に、日本文化のうち、常陸人にとって最重要といえる核心に到達したと思う。
 関西地方の人達は要は性悪系冤罪主義が多かれ少なかれ日常、もしくは彼らの本質にある社会運動なので、性善説でできている節がある常陸的な道徳とは全然、混じり合わないし、相性がしぬほど悪いのではないだろうか。僕がもし初めからこれに気づいていたら、もっと注意払って、SNS上でも性悪系と接触を避ける様にしていたと思う。実際に、現実だと君子危うきに近づかずで原則そうしていたけど。関西地方は昔から性悪前提の文化とか知らずに生きていた。誰も教えてくれなかった。僕が長い文化研究で遂に今日得た知見だ。そうとわかったら、僕は今後、どんだけ頼まれても、絶対に、僕と相性がしぬほど悪い場所、そういう人々には近づかない事にしようと思う。僕の天敵は性悪カルチャーを当たり前と思っている集団である。慶喜が正に実例で、幾ら英邁だろうと、或いは幾ら誠実だろうと、極悪衆の間では犠牲にしかならない。