2020年10月8日

引用主義は科学主義の一種で、単なる当時有名な一部の研究者仲間内での人気値に過ぎない

h指数(論文の被引用数の相対値)を全研究の客観的質の目安にし、それが低い日本学術会議の人達を迫害する様な言動してる理系猿とかいう名前そのままのアカウントがあった
 当然だがこれ科学主義の誤りの典型例だろうし、僕からみたら特に引用主義と呼べる或る考え方に過ぎず学術の質自体と関係ない。

 公的に箔がある研究者仲間(特定の学会員など)が有名な査読誌に文をあげた回数のうち、その仲間で引用された回数が、意味の上での結節点で認められた事と仮定し、便宜的に質の目安にしよう、と考えた人がいた。物理学者ハーシュが今から15年前に考えた、仮の定量化の一つなんだろうが普遍的指標でない。引用主義ではこの結節点、フシの部分になる内容が好評される。けれどもそれがその研究の優秀さ自体ではないのは自明である。まとめ的な論文の方がこの意味では点数を稼げる事になる一方、独創的なそれは引用数的にも時間的にも遅れてしか評価されないし、永遠にされないかもしれないからだ。
 引用主義の誤りを端的に理解するには、視聴回数主義とか視聴率主義みたいなのを想定すればいい。人気だから即ちその内容が優れているとはいえないので、これは唯の人気指数になる。h指標も、一定の研究者仲間での人気指数に過ぎない。人気が質の全てであれば、最大のポピュリストが最高の研究者になる。科学(原語scienceの原義に基づけば「知識」)の発展の内、特定のフシから枝分かれし別の展開がみられる、という風になって行く場合もある。しかし全くその展開が無視され永遠にそこで行き止まりの場合もある。だからといってフシになった文が、より質が高いとはいえない。単にフシになっただけだ。

 なぜ引用主義が出てきたか、科学論文が量産されすぎて最早一人では誰にも網羅できなくなり、仮の指標でもないと一体誰がその中で優れた執筆者か分からない、という悩みの便宜的解決の為だ。日本の学校教育での偏差値みたいに、余りに単純化しすぎた指標なので問題しかない。そういう仮構としてみるべきだ。

 分野ごとにh指標が異なる、特に人文系は社会の単位ごとに異なる問題を扱っていたりするので、宇宙の物質面を総合して扱う物理の様に普遍性がない。こういう極めて初歩的な批評性を全く顧慮に入れていないから「理系猿」なんだろうけれども、その物理学の内部だって同じなのにな、としかいえない。
 フシの部分になった或る研究(例えばニュートン力学)と、寧ろ枝葉の部分になった或る研究(例えば多元宇宙論――ここでは時間がずれている異なる宇宙が並存しうるとか、宇宙自体が複数あるとか、宇宙に人の観測できない部分がありえたり、究極で観測不能だとするものなど)があって、後者が永遠にフシにならず誤りだった、と理解される様になったとする。だからといって後者の質が低かったとはならない。全て当時の仮説だ。だから引用主義は物理学内でも不完全。

 因みにイギリスの雑誌が作ってる大学ランキングとかも引用主義を含んでいるので、僕は全く信用していない。世間の人達はそこまでみてないだろうから、勝手にそんなもんだと思いこめているんだろうけど。よく調べてから判断すべきだ。国際化もある面で極めて恣意的、しばしば意味のない指標というべきだ。
 ある国のある大学が国際化しているか、それと、その中で営まれている学術自体の質に何の関係もないのなんてみるまでもなく明らかだろう。国際化している方が優れている、とは、ある種の恣意である。優れた個性がある単一民族に集中してるかもしれないし、表面的に多様でも全員似た様な思想かもしれない。