自殺願望を持っている様な性悪を、自分は普遍的な慈愛・博愛の見地から救済しようと考えた事が何度かあった。実際その為に自己犠牲を図り、多大な苦労もした。だがこれらは全て間違いだった。この世には生きるに値しない人間、極悪人が現実には存在した。
慈悲は偽善で、与える側の利己性だった。
性悪はどこまでも悪意で生きているので、救済しようとした側に数多の濡れ衣を着せ、自らの都合で利用しようとするだけだった。しかもそれ以外の場面でも、常に他人に害を為し、究極でこの世にとって公害だった。
そういう性悪どもは生き残る事で却って当人にも周りにも有害な影響をもたらしていた。慈悲を説いた釈迦や、博愛を説いたイエスも、やはり究極では、善悪の理非を弁えていた。彼らは愚者や悪人に対して決して、賢者や善人と同じ評価をしていたわけではなかった。全く同じ観点から、性悪というものは総じて文明から漸減していくべき資質である。ヒト社会がより快適になるにはそれしかない。現代文明はキリスト教の教義を受け、自殺を一般に悪とみなし、誰でも構わず救おうとつい考え勝ちである。だがこれは文明の進歩にまつわる普遍的見地から、誤りだ。少なくとも性悪に限っては、悪人正機説とは逆に、早く死んだ方が世の中がよりよくなるのである。それが遺伝的なら子孫を残さずにである。
自殺は全ての場合に悪ではない。悪人が自死を選ぶ場合、それは彼らのもっていた有限資源が、より善良な人々に回りうる事を意味する。特に性悪に関しては生まれながらの資質に基づいていると考えられるので、子孫自体が文明内での性選択で絶えた方が望ましい。キリスト教の教義はこの点で誤っている。
或る善良な文明に、より悪辣な侵略文明が侵略し、善良な文明を破壊するという現象が一般に起きる。だがこれは文明の退化をもたらすに過ぎない。善良な人々を殺戮する技術的優位性はあればあるほどある文明を不快なもの、不幸なものにするからだし、人の目的は道徳的社会にすぎないからだ。
悪とは道徳的な愚かさである。性悪とは生まれつき道徳的愚かさに向かいがちな資質である。この特徴をもつ人は、或る文明に致命的な退化を絶えずもたらす。そして性悪が増殖し、集まると、そこはスラム或いは大都市を形成する。そして究極で中華思想に耽り、他の文明圏を差別しながら侵略しだすだろう。
性悪を集積させている現象を都市化と呼ぶと、この現象で都会人の犯罪率が高く、犯罪数が多い理由が説明できる。都会は一般に人口過密になればなるほどますます、性悪が集まっているとみなせるだろう。また性悪は特有の悪徳――特に性売買罪や不倫――で自滅的な傾向をもっており、出生率も下がる。我々の文明で、性悪どもが自殺する傾向をもっていれば、それは寧ろ社会で起きている道徳的淘汰が早まっているだけ、とみなせる筈だ。一般的な自死の原因が、利他性を生の理由とした道徳的な善に向かう傾向ではないのは明らかなので、自殺率の高さは、実はある文明社会の負の面ではない可能性すらある。
文明内では常に道徳的善を巡る戦いが繰り広げられている。ある愚者はより劣った道徳を善と考えているので、それより賢い優れた道徳を善と考えている人々に群れを打って対抗している。そうであれば、生存闘争によって自らの道徳性に基づいた利他行為を諦めた人々が自殺し易いといっていいだろう。即ち、誰かが自殺するか、生存して子孫を残すかは、道徳的善を巡る社会的闘争の結果であり、そのうち、犯罪率の高い都会で自殺率が高い状態の方が、国の単位で性悪が減っていくので望ましい事になる。
だが現実にはそうなっていない。寧ろ犯罪率と逆相関している。つまり社会的闘争が中途段階なのだ。出生率に関しても同じ事がいえる。望ましいのは犯罪率の高い地域、つまり都会で出生率が低い事だ。これについては現に凡そそうなっている。よって時間経過と共に、次第に国単位で性善的な人々が多くなる事が予想される。
即ち我々の文明の課題は悪しき都会に対抗し田舎の自殺率を下げる事だ。統計等で知られる通り、経済苦が自殺の主な原因なので、地方交付税の調整が足りず、田舎のうち特に寒冷地区の方が生活保護が受け辛い状態が、国単位で性善的な人々が減ってしまっている原因になっていると考えられる。この点でもBI導入で、いわゆる生活保護捕捉率を上げる事、最低限度生活保障が必須だ。