未だ誰も書いてないと思うが、同性友愛(ホモソーシャル、homosocial)社会に、女性蔑視(ミソジニー、misogyny)が伴うとは限らない。少年漫画の世界がいい例だけどそこで女性蔑視してる様なキャラクターって先ず出てこない。僕は男子校だったが少なくとも周りの誰も、そんなのいなかった。前も『私の親友のこと』に書いたが、自分の親友は男兄弟で女が希少だったからか彼女を軽くいじるだけでぶちぎれてきたり逆に女性崇拝の傾向があった様に思うが、結局、津田大介氏はこの点の社会学的認識が粗雑すぎる。特に日本国内の美術関係者全体への。
和人美術関係者=同性友愛=女性蔑視、みたいな公式、統計的にそれに合う証拠をみつけてきて弁護的に実証しても何の科学的意味づけも行われない。なぜならポパーじゃないけど真理とは少なくとも反証されるものだからだ。その事象に不利な証拠が一つ以上あれば、少なくとも唯の偏見でないかもしれない。反証論が有効なのは、そもそもの命題が単なる信仰でなく、その否定によって誤りうるなんらかの事実に即した物事か判定できるからだ。事柄の抽象性が高く却ってわかりづらくなるかもしれないので説明の比喩は省略するが、唯の集合とみても上記公式の集団が全数の可能性は自明にないし一般化も困難だ。
津田氏の引用する男女比は、どれも差別なるものと擬似相関か、全く別の相関を伴う類が考えられる。結婚までの腰掛(花嫁修業)論とか。日本女一般が家庭子育て重視で非出世志向、いわば女子力志向とか。その同調圧力も関係しているとか。差別の証拠を幾ら見つけても反証しないかぎりその真実性がない。黒瀬暴淫告発事件後も、「(不自由展騒動と国内美術業界での性暴力が)関係ないわけないだろボケ!」とかいって津田氏が発狂してたんだけれども、一体どういう根拠でそう考えてるのか自分には定かではなかった。ここでも或る仮説を余りに非反証的に信じ込みすぎだと思うのだ。
不自由展騒動、こと少女像・損壊御影その他の行政展示問題は、性暴力と直接の関係はないだろう。なにしろ表現自由問題と、会社内での地位・権力乱用(及びそれに伴う強要・準強制性交等が疑われる情痴もつれ)問題は別件なのだから。では津田氏がなぜこの2つを結びつけて幾分感情的に論じたか?
恐らく彼の脳内では従軍慰安婦問題が、カオスラによる(「ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校」業務内での)性暴力構造と結びつけられたのかもしれない。そうならそこに言及しないと、生真面目な国内の美術関係者全般をいたづらに挑発して終わるのだから、また前回の炎上と相似、元の木阿弥だと思う。