この世では自分が責任を取れる状態を作り出してしか、基本的に言動すべきではない。この逆をやっている人々をみるがいい。個人特定されうる条件になければ通常、利己的な人はその条件に甘え、ほぼ際限なく堕落してしまいがちだ。無責任さに順応し、悪い社会的条件づけの癖がついてしまうからだ。
文明人と野蛮人の一見僅かでありながらのち決定的になる差は、結局のところ社会性にある。人は社会的拘束の条件がないと容易に、原始的行動に逆戻りしてしまう。無人島で長く暮らした人に、身嗜みを整えたり、他人に気を使う類の行動は消失していく。向社会性(内向性含む)の質が、文明というものだ。参加している社会の、その文明の質とは、参加者総意として許諾される向社会性によっている。東京の一部では乱交が公然と許されているが、それは外部者の目には彼らの社会性が堕落しているからと受け取られる。京都で姦淫小説を傑作扱いしてきたのは、彼らの社会が普遍的な性道徳を欠いているからだ。ところが東京都民、京都人(特に京都市民)一般は自らを野蛮人とは認知していない。それは彼らの社会単位では、その一部での乱交や、公然たる姦淫小説の耽溺・礼賛といった風習が常識化されているからだ。調度、首狩り族の中では殺人が美事の様に。その社会集団の単位で、特定の風習が常態化する。同質の傾向をもつ人々はまねあうので、朱に交わって赤くなる、或いは類は友を呼ぶ。こうして文明は統一共同体にならない。バベルの塔の逸話の通り、地政的隔離の作用で、風習の差が生じる。
日本単位で匿名卑怯者文化が発生しそれが常態化してしまったのは、はじめは匿名掲示板を大流行させたひろゆきという一人の悪徳商人の手管だったかもしれないが、今では深刻な集団虐殺などの重大犯罪者を囲い込む、地獄じみたネットスラムの条件づけになってしまった。
最善の共同体を見つけるとは、結局、同類を見つける事に他ならない。釈迦は弟子によき友を見つけるのが修行の全てだ、といった(『サンユッタ・ニカーヤ』)。社会性の究極目的は少なくとも、知恵を友愛する人々(語源的な意味で、真に哲学的な人々)と共に歩む条件に身を置く事に他ならない。悪しき集団、悪徳をもつ友からはなるだけ早く身を退けるがいい。もし自分より優れた徳目を履行している友がいれば、その人からその点を殊更学ぶしかない。いづれにしても自らより劣る点の多い人々の渦中に身を置いてはならない。そうするくらいなら孤立していなければ、自分自身も堕落してしまうのだ。