2020年8月15日

18才の自伝 第十二章 水色ジブリ系下宿との遭遇

『18才の自伝 第十一章 ゲームオーバー地点での抵抗』の続き)

 もう一度下宿探しの所に戻る。
 18才の初春(大体2002年3月後半だったと思う)に、僕はO君と西武池袋線に乗り、僕的になんかよさそうな直感がする辺りまで、いくあてもなく鈍行車両で西へと移動した。そのうち大泉学園という駅に至った所で、ここかなぁと思い、降りるよとO君に言い、いきなり降りた。O君はただ僕のつきあいで着いてきていたので、そのあとから降りた。で、駅前(南側)出て、池袋方面にすこしもどったところにあった不動産屋に入った。そこでなんか話を聴いたがよさそうなのなかった。ただ一軒家ぽいのに値段的に2LDKと変わらない値段のところがあった。但し次の駅あたりの保谷ほうやにある。ほかに、普通の鉄筋コンクリートマンション(アパート)のもあった。
 で、僕の記憶が正しければ、この大泉学園駅の北側にある後者に、近くに停めてあった軽バン車両で案内してもらった。なにかの参考になるかもしれないのでディテールも書くと、僕が入った不動産屋はこの「住まいるステーション」(多分その途中にある不動産屋も入ってダメで、つぎ2件目)で、裏のこの位置に停めてあった気がする軽バンのところまで移動してそこで乗車、線路を横断し、この「コーポ豊島」に案内された。



自分の考えとしては、下宿で絵を描く必要があると思った。よって画室的スペースがあったほうがよくできるだけ広いのがいい。コーポ豊島は、1階が蕎麦そば屋だったかで、自分が案内されたのは2階だか3階だかで部屋の一角には天井が斜めになってる部分があった。僕はおそばがすきで近くにコンビニもある。

 次に案内されたのが、保谷の或る通りの奥にある、一軒家の2階であった。この上画像の右奥にある水色壁の建物。既にグーグルストリートビューで2013年時点(下画像)では新築住宅に置き換わってるが、2009年8月時点ではまだ残っていた。そしてここが僕に物凄く悪影響を与えた場になった。僕の東京観の殆どを構成する。


 今にして思うとO君もよくなかった。この木造建築の2階には写真で見える細い通路から奥にある内部階段をのぼるんだけど、なんか秘密基地じみた趣きが確かにあって、そこを最初に僕とO君が不動産屋のおじさんに案内されのぼってるとき、Oが「ジブリみたい」とつぶやいた。サツキとメイの家の事である。
『となりのトトロ』で主人公のサツキらは、古い日本家屋にひっこすが、そこには洋間に屋根裏部屋がある。急な階段をのぼると真っ黒くろすけがいる。あの場面と確かに、その狭くて急な階段を僕らがのぼってる場面は似ていた。がそのO君による過剰評価が仇となるのを、この時点で僕は悟っていなかった。
 おもいだすだけでつらさどころかつらみしかわいてこないのでもはや先を書き続けるのがこわくて仕方がないし、最低でも、僕が読んだ過去の全物語、小説、戯曲、伝記、自伝でも、この回顧録より重大な悲劇はないと思われるので、いわば自分に鞭打つ形で書き続けているが。できたらやめたいのは山々だ。或いはあわよくば体よく全記述をやり遂げ、読者の1人が「なーんだ、そんなもんか。大した悲惨じゃないじゃん」と逆に、自分の体験した恐ろしい過去をなめくさって評価するかもしれぬ。だがそうではないのである。僕が主観的に体験した事が恐怖の極みであって、第三者の目からみた泣ける系逸話でない。ただ自分が過去に残した文の全体でも、マスターピース級のものになるのは確定なので、自分は外科医みたいに自分の過去を冷徹な筆記で次々叙述していくだろう。それが僕には大変辛い作業であれ、人が学ぶとは通常他人の経験から学ぶのであり、自分の経験が永遠の闇に葬られるより人類全体に公益となる。

 この下宿は一軒家の2階全体を借りれるというプランで、間取り的には3LDKといえるものであった。キッチンと4畳半の和室と、普通のサイズの押入れ、あと多分8畳くらいの洋室があり、さらにお風呂とトイレも同じ平面にある。要は一人暮らし以上のサイズ感で、通常は小家族でくらせる様な場所だった。8畳と書いたが、はかってないだけで12畳くらいだろうか? 少なくとももし布団しいたら4つか5つくらいは横に並べられる気がした。実際、友達数人がこのあとで一度集まったり、何人か泊まっていった事があったのだが、その他にもスペースがあるのだから、一見すると広さでは十分な気がした。一見。
 でお風呂とかは少々古いステンレス槽なんだが、このOジブリ発言で、僕はまんまと欺かれた。例えば姉が大学時代に借りてた下宿とか最新式マンション(アパート)で、あのブラウン管風青いiMacも買って置いただけでなく明らかに設備もよかったんだが、僕は逆に、谷崎潤一郎式の渋好み発揮してしまった。何度も書いてるよう自分は超絶繊細人間だという事を、当時はそこまで自覚しておらず、ま、行けるっしょ、みたいに完全に自分の環境適応力をなめていたのだった。もっというと宮崎駿も悪い。なにせサツキとメイの家ではもっと古いお風呂なので。ステンレス槽のあの風呂場にどんな罠があるか教えてない。

 僕はそのとき下見で行っており、このあと、実際に下宿先を決めるとき地元(北茨城)からきた父母を案内して貰ったんだが、豊島コーポのほうはまともなRCマンション(アパート)であり設備も古くもなく、単に部屋の一部天井が屋根か階段かで斜めってるだけでそれなりに広い。こっちにしろと父が言った。しかし当時の自分は反抗期の最たる時点(といっても別に暴力ふるうとかの質でなく、親離れしたい自立心があったって事)で、Oのジブリ発言で完全にその気になってしまったので、イヤダ、こっちにするといって父が反対しているのにジブリ家屋のほうに決めてしまった。これが先ず完全に間違っていた。
 年の功があるもので、そもそも父も生まれは東京だし、若い頃都内にくらしていたし、彼の見解のほうが絶対に正しかったにもかかわらず、自分が選んだ(自分の好きな色の外見であった)この水色ジブリ系下宿がどう自分の生涯に消えない刻印を落としたか? 筆舌に尽くし難い失敗はあるものだ。青春に。

『18才の自伝 第十三章 椎名町99円ショップ階段でみた地上階の光』の続き)