2020年7月10日

文化人論

日本人で議論の能力あるひと(詭弁術による勝敗目的の論争ではなく、純粋に哲学的なもの、つまり事柄の真理を問う対話術的なもの)って、基本、唯の一人もみた事がない。それは最低でも福沢が『福翁自伝』で議論の風習がない、と書いてた頃から何も変化がない。今の匿名高校生も誹謗しかできない。
 けど簡単な英語ができたら、この点、普通に全く違う世界が広がっている。英語圏って常に多少あれ知性を使う議論(もしくはそれをユーモアの様な味つけに使う会話)が基本になってるので、日本語圏とまるで様相が違う。
 僕はそれを知って特に2つの事を感じた。
 1、日本って愚民政策でダメにされた地域なんだ、という事。具体的には天皇(と聖徳太子)が17条憲法でお上にさからうなとか、一応衆議尽くせとか書いてあるが(『礼記』『論語』の換骨奪胎、もしくは誤った援用で)和をおしつけるのと矛盾するので、生ぬるい忖度的お膳立てゲームしかなりたたない。
 2、しかし特に英国の中流以上と米国圏だと、10代の子供すら僕がびっくりする質の議論を日常的にやってるというかそういうのをよくあるネタにして会話していたので、例えば比較文化的な宗教論だの政治論だの芸能、音楽、詩の議論とかだが、それだと日本人馴れ合い世界のアホは毎日疲れて死ぬだろう。
 仏人とかスペイン人とかカナダ人とかオーストラリア人とかノルウェー人とかスウェーデン人とかも、この英米系の日常会話にかなり似ている。唯ラテン系だともっとぬるいというか、ふざけた軟派度があるので、イギリス、アメリカのうち特にイギリスみたいに、知性が尊敬の対象という感じではなかった。
 よって、こういう風にいえるだろう。日本語圏で生まれ育って、多少なりとも知性が高い子供、具体的にはIQが半分より上で、周りがサルにしか見えない子供って絶対いる筈で、こいつら漫画アニメとかほんとばかじゃねえかと或る時点で感じ科学や哲学、美術芸術に進む訳だが、その人ら英語もやる方がいい。

 イギリスも独特の文化で、大阪級にユーモアユーモア煩いのは僕みたいな関東生育人としては大変うざいわけだが(ノリツッコミみたいなのはないにしても、なんというのかひねくれた言い回しが板についてしまう様ないかにもブリティッシュな諧謔ミームってあるでしょ。陰険な京都風のとも微妙に違うが)、
 少なくとも並のイギリス英語圏の人なんて、普通にニュートン、ダーウィン、場合によってはマルクスなんかを先人にしたまま近世を経過していて、彼らを当然偉い過去の英人と思っているので、こっちの東京圏なり、関西圏ではもう全面それで埋まっている反知性主義的世界観はまだ庶民化されていない。
 唯、フランス語もいいと思う。前からいってるが自分が接した中では、フランスが僕は一番、古今の文明としては優れているものの1つと感じた。漱石はロンドンいってフランスいっときゃよかった、ちぇっ、っていった。全くよくわかる。愛と快楽の国フランスに比べイギリスって清教徒の陰鬱な世界だ。
 それだけではなく、特に画家に対する偏見(こいつら浮浪者みたいなもんじゃねえの?)の面では、イギリスは放置してはくれるかもしれないが(日本みたく具体的に集団攻撃まではしてこない)、決して尊敬はされない様に感じた。ま、その点でフランスも現実には相似かもしれないが、近代画家が沢山いた。
 過去にフジタとかゴッホとかああいうのがうろちょろしていた形跡があるだけに、フランスで美術芸術の話はかなりし易い。しかもどっちかといえばだが、社会的に地位が上の扱いに近い感じがした。もしかしたら無名のゴミにみえるこいつらも有名になるかもしれない、みたいな感じ。先例があるからだろう。
 日本は英仏と比べると、本気で画家(特に純粋美術、本画)の扱いってゴミ同然である。というかゴミならまだしも、100%偏見の狂人扱い、匿名でも実名でも激しく、集団虐待される。同調圧力の普通至上主義みたいなので奈良時代から天皇一派に「和」の合言葉で統率されてるので、個性を潰してくる。
 その代わり、特に東京だと漫画家(つまりは大衆か子供向け商業美術)ってのが謎の尊敬対象? でもないかもしれないが、社会的地位や市民権を完全に得ており、僕がいた調布でも銅像だのまで作られていた様に思う。浮世絵の現代版みたいなもので、いわゆる立派な芸術は馬鹿にされている世界観である。
 一昔前までは物派とか岡本太郎とかが威張っていたから、戦後日本美術も村上隆の用語を使うと「バブルラップ」の世代がまだ、ハイカルチャーを形成していた。それより少し前だと院展対帝(文)展もそうだが、本気で本画間で官民文化闘争していただけに熱気があった。村上隆が現状の元凶なのかもしれん。
 因みに日本でも、いわゆるサロン(公募展)作家の業界ってのがある。西洋大陸にもあるしイギリスならその頂点がターナー賞なわけである。そこの人達は相変わらず、黒田清輝以来の古典主義的な写実画をやっており、しかも庶民の目だとそれこそ分かる正統絵画で大金を貢ぐに値するので、贅沢三昧だ。

 僕と同年齢の某日展画家さんも、よくわからんイタリア製スポーツカーブイブイ乗り回しワイドショーテレビに出るといった感じで、辛うじて恋人だの家族だのに支援されて命を繋いでいるものの使えるかねが寸鉄もない純粋美術志向の僕とは全く、何もかも違う。ハーストが出てくるまで大体がそんなだった。
 このダミアンハーストという不良画家は、そういうTHE純粋美術界を壊乱(的革新)しようと考えたのだろう、野心的画廊と組んでピカソ以来の炎上商法で大儲けしていった。リヒターが拗ねた目でキラキラ系ウォーホルを同時代にみつつしょぼいキャンバスに机の絵描いては消してたみたく隆はならなかった。
 村上隆はハーストの露骨な競売主義を真似しだした。当人は他の欧米ファインアーティスト共が仏高級ブランドなんかとコラボしカネカネいってる第二ハーストのネタキャラ隆を、羨ましいなぁと感じられまねされ逆にドン引いたとか書いてたが、要は、ピカソとブラックみたいなもんだ、ハーストと隆って。
 隆のネタは、はっきりいえばハーストの追随であって、今書いたとおり競売主義である。で、バンクシーはそれを皮肉って「ストリートアートってタダじゃん? 君らの俗物業界ってなにさ」ポジション取りを同時代フランスにいたインベーダーとやってたが、インベーダー側はネタが少なくて目立たなかった。
 で、自分がいいたいのは、そういうファインアート業界があるのに、日本の庶民なり東京文化人界(ほぼネット芸人と一致するけど)は一切そっちに関心なく、朝から晩まで劇場版『エヴァンゲリオン』のなんちゃらスーツに目がへばりつくといった始末で、要するに萌えカルとか単に馬鹿なことをいっていた。
 そこにきてあいトリ2019でした。馬鹿共が美術の知識も造詣も皆無の状態で、いきなり操作の難易度でいったらピーチ姫級のカートにのりこんだもんだから大炎上してしまいました。津田さんが最初にやるべきは、本番じゃなくてキノピオ択んでチュートリアルのコース周回である。でももう手遅れである。
 大破したカートから、ピーチ姫のコスプレした津田がでてくるや、ルフィならぬシャンクス姿の友情ぶった愛知県知事大村の片手を哀れみ、一緒に誰も歓迎してないのにシャッターの内側から手を振るといった風情で、自称保守の右翼どもは自分の税金で天皇燃やされマジギレである。この独自進化も程がある。
 イギリスとフランスの違い、そんなのどうでもいいことかもしれない。でも競売主義で架け橋とかしててもうごっちゃかもしれない。ハーストの野心は、米国中心のグリーンバーグ教義にひずみを作る事でもあったのだろう。隆は漫画ネタでちょっかい出すくらいだが国内状況も津田勢に政治ネタで撹乱された。

 それはそうと、カテランのバナナ展示をどっかの作家がくって『腹ペコ作家』だとかいってた動画をさっきみたが、インスタで、それをデュシャン主義の純粋美術だといえて1500万円で取引してしまう純粋俗物社会が、漫画界より不真面目じゃないとどうしていえようか? 超平面とは違う批評点からだが。
 東浩紀のサティアンで、芸大卒のなんとか君が長ったらしい髪でなんか怪しい儀式をし、というか権威ぶって上から評断し、これはいいんだあれはダメなんだとか、正統通史的根拠主義があろうとなかろうと評価可謬説に立つ芸術不可知論の僕からみると完全に児戯に値するのはいいとして、漫画より偉いか?
 僕は同人誌も漫画も似たり寄ったりの手法にこだわる描写絵本だという風に思う。絵画的には魔術現実主義で、大して進化があるわけではない。『南総里見八犬伝』にイイネつけた芥川みたいな感じでしかみえないので、別にそれ以上でもそれ以下でもないと思うのに、反知性的漫画業界が俗物社会より偉いか?
 僕がみるに、そういう東京俗物社会は、漫画業界と似たり寄ったりである。どっちも馬鹿げている。だから一切近づかない。向こうからいわきに来たときだけ様子見にいったが、つまんなかった。具体的にいうと寺の梅ラボ絵と、鳥山明展。彼らはどっちも程あれ商業美術である。そんなのどうでもいいのだ。
 絵画史はもっと滔々とした駘蕩たる大河であり、殆ど人類全部をのみこんでも利根川の隅でフナつりしてる白鷺の子のくちばしくらいのサイズなのだ。そこの端っこで、やれカイカイキキ潰れそうだの少女像は戦時性暴力で日本ヘイトじゃないが(それは一解釈でしょ)とか、王道的にはどうでもいい話である。
 じゃあ王道ってなんですか? それは絵画自体の問題を考察してるかどうかなのです。僕はセザンヌという人はレゾネっぽい画集まで買って網羅的にみたつもりだけど、彼は妻子とだが実質仙人生活しつつも、ずーっとそれだけやっていたのではないかと思う。同時期モネに比べても軽薄さがなく真面目に思う。
 梅ラボの寺の絵を実物みた限り、なんてーのか印刷物としては細かくプリントできてるから一見なんかなのかなぁと思うけども、よくみると漫画の断片で気持ち悪いし、日本画としても地獄絵みたいでもあるにしても、別に新しい手法がとかそんな事もなく、奥で大仏ゲームみたいのしてる男の車だけ気になる。
 東京からいわきまでね、寺の隅の小屋で展覧会の管理の為にね、オープンカーできてんですよ。1人で。若いのに。かなりなんかなぁと思っちゃうよね。そこ、お墓がたっぷりある小高い丘の上で昔のさ、平城の近くよ。僕のいってた磐高のさ、帰り道を右に入った所あたりだよ。なんかなんかなぁと思った。
 ばんこーなんてさ、旧制中学? というやつかなんかの名残なのかしらんけど硬派なわけですね。完全に硬派だったと思います。1年生が応援団にしごかれるとか。僕が居た時は男子校でしたし、3年まで。そこの風紀をね、お前はオープンカーでかっこつけてきてぶっ壊してんのか? お墓で。なんか違うと。
 一種のね、テリトリーだと思います。わたくし達の。地元の一種。まぁいわき人ではねーけど。お墓もありますしね。津田さんにもいったけどさ。豊間のコンビニでやったでしょ、なんか。そこにさ、あの黒髪長髪のやつはさ、東浩紀つれまわして出入りしてるわけですよ。その時点で警戒的注意深くみるよね。
 どうでもいい話題で誰にもいったことないけども、そのお墓があるさ、梅ラボの絵飾った所あるやん、あそこの近くのね、神社とかね、僕が高校の時ね、夏祭りでね、つきあってくれといわれたバンジョのね、彼女といきましたわ。或る夏の夜。別に何もしてないけど。座ってただけだけど。ベンチかなんかに。
 そこで座ってましたと。そのすぐ近くのお墓の寺の、なんていうのか法事でくる人達のお茶飲むお客間みたいなところでね、地獄絵飾る時点で「なになに~? どうしたの」って思うよね。だから直接みにいく。そしたっけ、俺んちは乗用車なのにお前はオープンカーで来ていますと。馬鹿? 人生なめてる?
 まぁ別に馬鹿とか思ってませんけどね。これか、あの大仏ゲーやってるやつの車、ってか俺んちの車以外1個しか停まってないし。で、そのさ、地獄絵が立派ならいいよ。イイネ! すばらしいねっていって、いわきのカルチャーを桜植えた回廊以上にもりあげてやっつって。お魚買って帰るでしょ。普通はね。
 要するにね、僕を失望させたわけです。僕は美術をみたいのね。立派な絵を。いわき市立美術館にはウォーホルのね、チャッキーだったかがあるの。素晴らしいですよ、僕が一生の間に見た中であれだけの審美的ショックを与えてきたのはそうない。が。梅ラボの地獄絵は「うーん?」ってだけで終わりですよ。
 わざわざさ、挑発的にテリトリー侵入してきてだ。原発ぶっ壊しただろ? 自分から原発つくって。その時点でこいつら東京人どうしようもないゲスだなと思ってる最中にさ、観光地化計画や~観光客のテツガクや~とかいいまして、地獄絵飾りにきたと。実物がよければまだしも東北ディスってワイナリーか。
 酒飲んで酔っ払いながら衒学語るのってさ、ヘーゲルスタイルやん。ヘーゲルもそうでしたよね。又聞きで知る限り。本当にいい加減な放言ばっかしてますよ。文章もね。でも大学教授の肩書きあるから放置されていた。で、結局ナチスの震源となった。おかしいでしょ。馬鹿は馬鹿だとはっきりいうべき。

 物凄くよくできた美術をさ、いわきでやって復興ネタとかならいいよ。ディズニーが五浦美術館で展覧会しててそれもみた。あれは善意だったと思う。子供がグッズ買ってた。ま、いわゆる完成された美術ではないかもしれないけども、意図の方が善意ならイイヨイイヨってなるでしょ。でも地獄絵はどうかな?
 サブカル地獄を、日本画の襖絵っぽい断片で再構成しましたと。そのネタ、毎回やってらっしゃる。よく知っています。でもさだからなにってだけなのよね。コンセプトからして。なんにも実体ないに等しいわ。いわきの巡礼が~とか。なんというか学生のさ、手作り展覧会みたいなのなんだよね、文化祭級の。
 僕に言わせてもらえれば美術手帳とつるんでだよ? 自分らはハイカルなんやでってポジション取りして上から目線でくるならだ、少しはましなことやってほしい。それが義務ですらある。だって僕とかイワコーの美術部長だったんだぜ? 美術手帳ってなんていうのかさ、少年サンデーみたいなもんじゃない。
 敢えて少年ジャンプとはいわない。サンデーくらいの感じ。コナンやってるんだって。やってたんだって。メジャーやってたんだって。でもそこまで王道を直球で投げてくるわけでもないんだよな。なんつーのかサブカルちっくなひねた見方をしてくるからいつも的を外しててなに言いたいのかわからない。
 僕はね、その頃、ツイッターやってませんでした。ロム専でしかみてませんでした。それは別にやる必要感じてなかったから。僕がやる必要感じたのはトランプが参戦したからです。ツイッターがメジャーなメディアになることが確定したからやっている。でその観察期にはね、緑川君が戦うのかなぁと思った。
 0000(オーフォー)ってのがいました、一瞬。KPOPでいうとレインボーより短くて、フジテレビであの四角い顔のめがね男が朝にT-ARAを紹介したくらいの期間、出て消えた。文脈的には先取りしてたんですがね、TWICEを。日韓混合グループでしたから。しかもアイドルじみた売名現代アーティスト衆で。
 僕は緑川君と高3の時同じクラスだった。あんまかかわりなかったけど。友達介して接したくらいだけど。僕は美術部だったんだが緑川君は音楽部だった。それが大きいというかそれのせいだけど。で、彼は音楽の道いくのかなぁと思ってたらなぜか美術側にきたので、遠巻きにみていたのだ、友達介して。
 そんで、黒瀬洋平氏は、緑川君を挑発? とまではいかないにしてもなんか最後のGEISAI(村上隆がやってたアートイベント)頃にキャラかぶってたので、馬乗りでいわきの連続美術展やってる感じにみえた。僕は友達というか親友介し緑川君と一緒にやりましょうか? っていったら親友がやめようといった。
 大体20代の頃そんなだったのだが、僕は一人で下宿で絵描いたり、建築の勉強したりしていた。小説や音楽作ったりもした。で親友曰く、「なんか(鈴木さんと緑川君は)違うので(一緒にやるのは)やめたほうがいい」という事だった。僕がウォーホルほめたら「(映画でみたが)不良の集まり」といわれた。
 当時、これ公に書いたことないが、僕が多摩川の下宿で一人で或る朝、放送大学見ようとテレビつけたらそこジェイコムというケーブルテレビ入ってたんだけど、いきなり緑川君ぽいのが出てきて「この人なにやってる人?」とか出演者の女にいわれて、空気読めてなさが凄かった。昔から彼はそうだった。
 村上隆の新書の本(『創造力なき日本』)に、「高い学歴をもった人」という記述がでてくるんだけど、あれ緑川君の事なんじゃないかと僕は思った。違うかもしれないが。ゲイサイでのやりとりとかもみてたけど、なんか彼が言いそうなせりふでもある。要は意識高い系なんだけどどこか滑っているのである。
 また、これも同級生で違うクラスだったから接したことないけど、開沼博君というのがいた。彼がどこかで書いてたけど、「時代の渦中じゃなくて少し離れた所にいたからこそ、学者(そこでは宮台真司の事だったと思うが)が冷静に事態を歴史的に記録できた」云々。宮台をそれというのはおかしいと思うが。
 例えば柄谷行人はその理屈を「亜周辺」という概念にしている。帝国(中華)、周辺(朝鮮)、亜周辺(日本)みたいな枠組み。僕は、これでいうと常に亜周辺ポジションが好きである。理由はよくわからないにしてもなぜかそうなりがちだ。水戸の称・副将軍文化が影響してるかもしれない。
 義公は将軍家を継げない末子だったが、かれの父は幼児に天守閣でここから飛び降りたらなんでもすきなのやると家康にいわれ、天下くれといったくらいの豪傑漢だったとされている血筋、やがて主著『大日本史』通じ明治維新以後の象徴天皇制の枠組みの基礎まで構想する様な、大政治哲学者になっていった。
 で茨城県、嘗ての常陸国を義公が統治したもんだから、そこは彼の気風がおおかれすくなかれ伝染、実際ぼくんちの近所までちゃんと義公が座った石まで天妃山にあって僕がそこに子供の頃からのぼってもない足跡があるくらい、義烈館で実物見たが義公自身が副将軍と自署に書いてた。亜周辺が是な気がする。

 全く似た事は、僕としてはイギリス、特にスコットランドとかアイルランドにも言える様な気がする。イングランド含むブリテン単体にもいえる。そもそもゴシック様式なんざ大陸からみたら奇形だが、それを好き好んで国会議事堂にまで採用する。日本でいえば雁行形式の都庁の脇の丹下のみたいなもんだ。
 昔、モギケンが土浦の某蕎麦屋にきて、最初はこっちのがよっぽど硬派で、東京よりずっとイギリスに近いとかほめてたくせ、途中で主人と話し込んでからは意外と庶民派の話ぶりだったからかB級グルメとかクオリア日記でいいだしたのも、似た様な話だと思う。亜周辺をみる帝国の眼差しに回帰したわけだ。

 意識の流れ的に話があっちこっち飛ぶねえ。わざとです。そういう散文を残したらおも白いかなとおもて書いている。それはいい。結論する。
 ツイッターで議論ができないのは日本人一般に議論の風習がないからだ。彼らは口論を喧嘩と思い込む町人であって、永久に古代ギリシア自由市民界に合わない。
 しかし事は庶民に限らない。少なくとも僕がツイートであいトリ問題の性差にふれてたらエゴサで向こうから絡んできたので津田某氏に、期待できる程度の会話しようとしたら、「建設的議論」の定義が彼と僕はまるで違って、彼は応援か同調してね! って意味でいっており、僕は弁証法の意味だった。
 他にも雑魚かもしれんが、顔隠してたなんちゃら哲学チューバーにも軽く絡まれたことがあるが、こいつも同次元以下であった。修士だからお前ら金払えや~とか完全なポジショントークで実名・匿名の倫理的是非の詳論から逃げただけでなく、周りに同調してた日本国内の思想史大学人連も同然だった。
 一言でいうと、日本人一般は馬鹿なのである。それは議論する知的能力もなければその為の討論的様式の基礎がなってない。僕の小学校で先生がやらせてた様な気がするが、クラス討論会みたいなので或る主題に肯定・否定側を入れ替えてやり直すみたいなのをやった試しがない、空気読み和の奴隷である。
 それで日本人という生き物は、全員一致の冤罪(全会一致の幻想と呼ばれるよくある集団浅慮)も平気でやるし、しかもそれを和とかいって絶対正義と信じ込む。天皇が利己的な謀略で誰かに濡れ衣着せ、朝敵や! とかいったら信者全員で袋叩きにして抹殺して汚名を着せまくるなどもその部類だが、巨悪だ。
 だが英語圏は決してそうではない、尤もイエス、ソクラテス、ガリレオ裁判などヤバイ案件を経由してきた歴史的蓄積とそれへの反省あってのことだろうが、知的議論ってのは日常的に行われうる。というか、知識階級以上の大人は社交としてそうするもんだみたいな風儀さえあると思う。日本とは全然違う。
 じゃあ君は、英語で話せばいいじゃんと。その方がお仲間いて楽しいでしょと。確かにそういう面もあるが、残念ながら、母語が日本語なのでこっちのがいいたい事を言い易い。そのせいで日本だと、知性が普通以上の人って、居場所がないのである。竹内洋でいう「フラストレーテッド知識人」ができる。
 馬鹿の島じゃんと。サルに幾ら高級エサやろうが、それって豚に真珠じゃないですかと。寧ろ漫画、アニメ、ゲームでも任天堂のサードパーティとして売ったらどんだけ金儲かるし、オタ外人からイーロンマスクまで媚売ってくるじゃないですかと。でもそれって、正に堕落だろうと僕はいう。プラトンと共に。
 千万人と雖も吾往かん、と孟子がいい、満足した豚より不満足なソクラテスの方がよい、とミルがいう。或る面でどっちも似た様な事を言っている。
 イギリスだって最初は馬鹿の集まりだったと思うのだ。フランスだって。しかし一介の農民の息子がひとりでがり勉したから今や科学者の巣窟になった。
 われは企図す。今後千年もしたら、誰も、茨城の方が京都より文化的に下だとかいわなくなるであろう。そんな風に思っていた連中が過去、というか中世から令和にいたなんて事すら、笑ってしまうであろう。それは僕が生まれたからである。文化とはそういうものだ。たった一人でも何もかも作り変えられる。