知識人なり文化人なりの究極目的は、よりよい社会を作る事だ。自分が他者より物を知っているとか、他人より造詣と称する評価眼がある(という信念)とかで、他人を見下したり、名誉、肩書に伴う地位を得たり、金儲けしたり、炎上稼ぎでサイコなコメンテーターぶるのは、どれも目的から逸れている。
真の啓蒙は行き過ぎた謬見(迷信、特にひとに認知できる範囲を超えた妄想)を控えめな見地から正す消極的な物、云々とカントが書いた(『判断力批判』159)のは、知識人、文化人の類がこの世でなすべき仕事の相当部分をいいあてている。結局そういう良識を生み出す目的で、自由教養があったのだろう。
哲学者が過去なしえた全作業の中で、最も尊い至高の仕事は、最高善の考察だ。最高の善とは何か、この世で最もよいこととは何か? それをあまねく定義できれば、人はその理想に向かって生きればよい。
単なる啓蒙はこれに対し、高々大衆の迷信を解くに留まるが、良識の重要な一部といえるだろう。