きのう、某科学哲学系アカウントが次の様にさえずった。
某匿名チューバーの引用リツイートしながら「独自哲学送ってくる困った奴いるやで」とか。
これをみてて思ったに、全て独自哲学だと思うのである。アカデミズムってじゃあなんなの、についてさっき考えた。シャワー浴びながらで。次書く。
アカデミズムって音楽でいえばヒットチャートと同じだなと思った。当時の或る学会には一定の共通認識もってるオタクが集まっていて、彼らはオタ的常識みたいなのを吹聴する。それが当時の潮流 paradigmだ。
潮流がこじれると「学派 school」なるものが形成される。或いは「~主義 ism」ともいう。
一方、物理主義(物理の考察を森羅万象の中心視座とする一派)では、分析対象の物質が普遍性を帯びているとされるので(実際には感覚器による認知バイアスに依存していて厳密ではない)、自然科学には学派や主義がないかと思える。が、そうではない。天動・地動、古典力学・相対論。潮流転換はある。
しかし確実にいわなければならない事として、学派、主義、潮流は哲学(学問全て)の目的ではないだろう。ヒットチャート上位をかなりの期間、独占していた。それは学問の全てと余り関係していない。唯の流行である。
哲学の目的はアカデミズム内で認められるかとは何の関係もないといってもいい。
アカデミズム(学園主義)ってそれ自体が、一種の流行なのだ。プラトンの作り上げた潮流とでもいおうか。
諸子百家の誰に、現地アカデミーからのお墨つきがあったか、後世はろくに調べもせず、思想だけをみる。孫子とか老子とか。だがそれが本質であり、不易な哲学といえるだろう。流行は関係ない。
ではなぜ某科学哲学アカ(学部生ぽい?)や、多分思想史の修士を種に威張ってる某チューバーが、アカデミズムを哲学の前提に論じてしまうのか。
カント曰く哲学を学ぶ事はできない。精々、哲学する事(知恵を友愛する事)を学べるだけである。
この意味は、考えるのは自分でやるんだよって意味だ。
カントは西洋思想で存在感をもつ人物で、東洋でいったら孟子くらいの位置にはあると思う。非西洋圏のものを含む人類思想史全体の中での重要度で。彼は余り読書家ではなかったといわれる。ルソーに夢中になった逸話が伝えられるくらいだ。過半の時間は、自力で考えるのに費やしていたらしくみえる。
当時手に入る知識を徹底的に調べ尽くすだけでも一生は到底足りない。アカデミシャン(学会人、大学教授、教員ら)はそのうち、本の一部にしかアクセスできていないのが現実だ。という事は専門知のうち流行の共通認識を持っている可能性が高い、とは一応いえるにしても、当然ながら万能では毛頭ない。
だからこういえるだろう。アカデミーは流行の芸能事務所みたいなものだと。
そこにアクセスすれば、トレンドは間近にみえる。これがはやってんだねぇって。でもそれに囚われると、不易なる本質に遠ざかる場合もある。昔は天動説がアカデミーの通説だった。その外にいないと真理に到達できなかった。
自分は過去の全人類の思想史(科学史も含む)で、網羅できるだけみてきた感じ、最高の位置を占めているのは恐らく釈迦だろうと思う。彼の考えは当時彼にアクセスできたインド思想を総合批判した物だと思うが、それでも十分すぎる深みに達しているのは疑えない。彼は乞食詩人でアカデミーとは無関係だ。
裏を返せば、某氏らはアカデミズムに囚われてしまっていて、その当時のトレンドを抑えてるんだぜえ式の権威や箔の類で飯を食おうみたいな、狭隘に嵌ってしまっているのだろう。
僕は籍は一応今も大学にあるが、学問的に出たり入ったりしているのでそうなってない。彼らを反面教師と感じたので記す。