2020年6月30日

衒学は哲学の本質に反する

ケインズが『一般理論』で次の様に書いた。通常の経済学で数学を乱用するのは自然言語による思考より劣っている云々。これは、一般人が哲学的思考に用いる類の、一定より抽象概念の多い言説がわからない、具体的に説明してくれというのと類似している様ではあるが、本質的には違う内容を指している。
 村上春樹の文体と大江健三郎のそれで、前者の方が基本的にわかり易い。大江は衒学趣味もあるが、そもそも大衆的にわかり易い文体を作ろうとしていない様にしか見えない。一方、春樹は当人がインタビューなどで語る通り、できるだけ深いことをできるだけわかり易く述べようとする。
 ケインズが言っているのは、経済学で不必要な数学が、単に理科版ソーカル事件的な衒学の手段にされている、というのに加え、文体自体をわかりづらくする利点はない、寧ろ、経済学者自身にも簡素な文体の方が合理的という説だ。全体としてわかり辛さ単体を知性を混同する傾向を批判しているのである。
 我々は、その傾向、すなわち理解不能さをある種の知性の証とみなす傾向を、一般化して俗物趣味、スノビズムと呼んでいる。
 私がここで書きたいのは、ケインズ的な反俗物趣味は、学問全体を簡素化するのに十分役立つし、全ての学問にあてはめるべきだということである。難読語の乱用などが典型だ。

 自然科学は再現性、追跡可能性、これらを通じ一般的な学習可能性が高い点に、特有のよさがある。誰かがいづれ同じ結論に辿り着くし、それが真理あるいは事実であれば、誰が学問をしても程あれ同じ結果を得られる。社会科学はそれより複雑なので文化ごとに固有の結論などがあるにしても、事情は相似だ。
 芸術では独創性、前衛性など、しばしば科学と全く違う要素が求められ、学習が役立たない場合も多い。
 結局、反俗物趣味の効用は、科学の範囲で最も有効で、芸術の範囲では必ずしもそうでない。例えば修辞技法では衒学自体が芸事になる。既にソーカル事件で批判されたよう哲学の範囲ではどうだろう。

 科学教育がおもになった現代人に、縁遠いとみなされている哲学は、世人に衒学と混同されることすらある。しかしこれこそ俗物趣味が最たる悪疫を与えた結果である。
 本来、哲学とは、知恵の友愛が語源な通り、当然、芸術学、全科学も含む全学問の名義である。つまり哲学も簡素な方がよいのだ。
 但し、単なる反俗物趣味だけでは、わかり易い愚説こそ哲学的だと浅慮される恐れもある。また深く複雑な内容を、難しいだけで無価値とみなす恐れもある。よって簡素さは、努力義務でしかない。
 現代一般の学園主義では、この逆の傾向がある。教授は権威づけの為、世間の評価を回避したがるからだ。

 スノッブ効果のよう、少数派にしか分からない内容こそ、大学関係者は心理的に、過剰評価し易い。多くの人々に評価されている大衆性から遠いほど、大学人の権威が先取りの虚勢と見破られずに済むからだ。この傾向は全く哲学の本質に反している。
 学者はなるだけ自然言語の母語で簡素に説明すべきだ。