2020年6月30日

なぜ文の方が話より知識人の通常の会話方式としてよりよいか

人が物事を自分より愚かな人に説明しようとすると、大変な労力を費やさねばならず、しかも文にせよ話にせよ極めて間延びしたものとならざるをえない。抽象概念、専門用語など省略できる点をより冗長で、基礎的知識のない人に向けた比喩、或いは説明で埋めるしかないからだ。
 教授、教師と呼ばれる人は、この説明が為事の人達である。故に彼らが同時に一流の学者であるとは限らない。
 ユーチューブ動画などで、明らかに内容の薄い物に沢山の視聴者がたかっている点をみると、基礎知識の水準が低いほど説明が間延びし表層的になり、同時に、伝えられる情報の質は低くなる。

 以前、明らかに基礎知識、基礎的思考力が低いだろう人々が、ツイッター上で荒らしとなって群れていて、彼らが私に次のよう難癖をつけた。いわく「短文化の能が賢さであり、冗長性は愚かさ」である。
 この意見を言っている彼らが理解できる範囲で説明していた私にこれを言うので私は呆れたのだが、要するに彼らは、第一に高度に抽象的な内容を理解できないのに加え、第二に言語流暢性を冗長性と混同していた。
 情報理論でいう冗長性は、ある情報の束のうち、部分的欠損を補うものである。それを極力0に漸近させよと言っていた彼らは、自然言語の利点を知らない。いづれそのため諸々の失敗をするだろうとその時点で私は推察できたのだが、彼らに具体的説明をしようものなら逆上してくるので始末に負えなかった。

 誰かが何かをある人に説明する際、その相手の周囲にも公開されていて、暗号化する必要がないだけでなく一般的啓蒙性をもつ様な場合、汎用的な言い方を使った方が情報量あたりの伝達効率が高くなる。これで自分は、きこえる人々の平均に配慮した表現を使う傾向にある。漢籍に類似の勧めがあったと思う。

 他方で、ある学者が「博士の知識水準を余りに低く見積もりすぎている返信は迷惑」とツイッター等で述べていた。単にツイッターというSNSの実践的には言いたい事はわからなくもない。通知欄をつけていればだが、時間がムダになるからだ。しかし自分はこれが半分間違っているとも思う。
 一般に人は他人の知識内容に推測が及ばないものだ。私がいつも失敗してきたのは、その逆のパターンで、特に東大卒などに自分が期待する知識水準以下しかなく、失望させられる経験ばかりだった。彼らに凡そ受験勉強の通り一遍の知識しか期待できないなど誰が想像したろう。要は学問などしていないのだ。
 説明的な人を見下す人、それはそのある学者が通常やっている言動そのものだが、これは小人的態度と思わざるをえない。相手は完全に親切で、わざわざ冗長性を帯びた言明をしているのである。それは相手にとって一般に費用なのだ。自分に既知の内容だからといって軽蔑するには及ばない。情報は非対称だ。
 唯の対話、会話の場合は、確かに自分にとって過剰に説明的な部分は労力の浪費だ。だが周りの人間にとって十分な説明かもしれない。いづれにしても、文に関してさほど迷惑には及ばない。簡単に読み飛ばせるからだ。話は時間を拘束しているので省略できない。私は文を話より知識人の会話方式として好む。