2020年6月30日

なぜ方言こそ尊いのか

主に関西人とか、
東京、南関人とか、
中部人、北陸人とかにみられる偏見だが、
東北から関東北部の言葉を
さも、
負の場合なら非洗練とか粗野、
正の場合なら素朴、うぶさと結びつける。
これは完全に弥生系の中朝移民がもっていた、
先住日本人への差別意識の名残でしかない。

遺伝学的にいうと、
縄文系のハプログループDの系統こそ
日本人特有の遺伝子であり、
弥生系のO1b、O1b2は朝鮮半島や、
中国の一部と共通しているものだ。
両者は日本人の相当数で混血しているが、
アイヌのよう純血に近い日本人もいる。
天皇も移民の末裔なのは歴史的に明らかだ。

しかし朝鮮半島や中国から
文物や技術、制度を借りてきた
関西地方の人々は、
朝鮮語ナラ(国)を地名にしたり、
そこからみて自民族中心主義的に
先住日本人側を朝鮮語ムツ(奥)といった。
今でいう英語と同じ感覚で
外国語を使えるのが、
当時のナラで知的と思われていたのだろう。

先住日本人側は飛鳥時代、
ナラ地方で現地暴力団の一人、
いわゆる古墳豪族のひとつだった
ある家が旗揚げして以来、
長らく虐げられ差別されてきた。
この家は漢籍『史記』や中国語から
最高権威の名を借りて、
自称「天皇」といいだした。
漢語自体、元々日本語ではない。
ここでも文化盗用がある。

北海道の言葉は、
明治以後の移民らの影響で、
本州の言葉と混じり、
今では日本語の標準語に相当近いが、
もとはアイヌ語であった。
そこでの最高神は
あらゆる場所にいる「カムイ」であり、
明治政府が神格化した、
自称天皇の祖先女神「アマテラス」ではない。
宗教自体が、ナラとは違ったのだ。

中国風の多神教を輸入した神道と違う、
古来の自然崇拝の証拠として、
我々の博物館は土偶をもっている。
縄文期は最低でも砂原遺跡から12万年あり、
その間の本来の日本文化は、
天皇が関西・東京地方から
自文化中心主義に基づく弾圧で
殆ど蹂躙し、消してしまったが、
今もアイヌの中に残っている。

アイヌの意義、
つまり日本の原型と同じ文脈で、
東北から関東北部の言葉も、文化も、
いわゆる先住の日本人らが
いかに、西日本にきた中朝移民からの
暴力と差別による弾圧を耐え抜いたかの証だ。
もし弥生時代から今に至るまで、
中朝系移民らが多文化主義的なら、
土人なる差別用語がある訳もない。

大阪の警察が沖縄で、
米軍基地増設に反対する住民を、
土人が! と罵倒した事件がある。
まさにそれが、弥生時代以後の関西地方の、
移民の風儀なのだ。
先住の日本人を差別する。
明治以後には植民地化した朝鮮からの
移民へも、再び差別する。
弥生系移民が先住日本人や近代朝鮮人を差別する。

天皇は、自文化中心主義、
それを中国風に強化した中華思想を
遣唐使以来、自ら輸入した。
ナラやその北部にあった山城国に移住後、
彼らは、弥生系移民のその種の差別観を
あらゆる場面で発揮し、
人種、身分差別の制度を強化してきた。
明治期に薩長藩閥は更に、
万世一系説で性差別を強化した。

京都という言葉は、
以前は単に京といっていたが、
山城地方の或る自治体の自称である。
平城京、平安京、いづれも
中国長安など条里制をモデルとした
中国風の中世都市として計画された。
そこから見て東の国、
更にその北、というのが東北という言葉で、
ムツ同様、関西中華思想の造語だ。

下総と上総が南北上下逆なのも、
越が前後で区別されているのと同様、
当時の山城人が中華思想に基づき、
海から船で渡った場合ふくめ
より京に近い方を優先し示す記号だ。
東京が京からみての方角を含むのも同じ。
これらはエスノセントリズムによる
華夷秩序の用語であり、
差別観は言語観にも及ぶ。

こうして、
天皇が移住してからの東京方言は、
嘗て武蔵国の言葉にすぎなかったが、
江戸弁より山手弁を中心に標準語とされた。
江戸弁の方は町人の日常語で、
武家、明治以後は華族らが使う山手弁と
区別なり、しばしば差別されていた。
小池都知事のオホホうふふは、
麻生節と質が違う言語だ。

現代の敬語は、標準語に関する限り、
山手弁をより回りくどくした形式にされている。
~されてらっしゃいます、など、
ビジネス敬語として商人に援用される部分もあれば、
~にてあらせられます、など、
より山城付近の中世語に近い、文語的表現もある。
そしてこれらは、一種の言語上の位階制を作る。

東北の母語、
それは縄文系の先住日本人らの
元々の日本語が生き残ったものなわけだが、
天皇と称する帰化人の末裔は、
西国、関西地方、東京地方の人々と共に
自文化中華思想でその言葉を軽視してきた。
ズーズー弁などと江戸人の漱石が
蔑視の文脈に置いているなどその例だ。
(1901年2月9日書簡)

そしてこれらの根深い国内差別は、
天皇と称する一門を中心に作られ、
彼らが位階制、カーストの最上位で、
それ以下に彼らに利益がある程度で
いわば側近政治の形でつくられる。
いまだ靖国に奥羽越列同盟やその援護者、
あるいはA級戦犯らが祭られない。
しかも天皇が参拝しない。
皇室ご都合主義。

当然のことだが、
全ての言葉はそれ固有の価値がある。
文化、命、民族、自然、土地、
産業、風習、生活の一切も同じだ。
文化相対主義や多文化主義を超え、
単に多様性そのものが世界の意味だ。
そうであればなぜ、
東北から関東北部の言葉が
位階制で貶められるのだろうか?
京都や東京の言葉から?

これは国内の話だが、
目を国外に向ければ
英語帝国主義の内で
王族英語、BBC、容認発音中心主義、
一般米語、あるいは
国連公用語になっている国々の言葉から、
それ以外の言語が辱められる。
これも京都・東京中華思想の類似現象。
外人も似た様な言語的偏見をもっている。
北京語と広東語。

つまりこういうこと。
訛りなど存在しないのである。
全ての言語は正しい。
当人のいい間違えはあろうとも、
全ての人に正しい表現はない。
もし誰かが、世俗の偏見で、
誰かの言葉をからかっていたら
こういってやらねばならない。
君の言葉は馬乗りの手段ではなく、
相手に物を伝える手段だと。

世界中で通じやすい言葉もあれば、
身近な人にしか通じないのもある。
しかしどちらかといえばだが、
身近な人にだけ通じる表現が
豊富であればあるだけ、
その集団は言語流暢性が高いのだ。
一般言語知能が高ければ高いほど、
または特定言語知能が発達するほど、
その人は新たな認知が広がる。

ほぼ同じ表現がみつかる言語間で、
同時通訳するならAIが向いている。
寧ろ特定集団でしか通じない表現は、
つまり各言語は
人らしい世界を拡張している。
雪の種類。色の形容。変態性欲。質感。
思いやり。警句。冗談。愛の種類。悟り。
その集団に興味深い対象が深められる。
変わっているほど偉い。

日本語の最たる一特徴として、
韓国語と相似しているが、
活用や、擬音語が多い点がある。
これらは昨今、より国際通用性がある
英語や中国語では、
そこまで発達していない。
韓国語では罵倒語が多いとされ、
日本語では人称代名詞が多い。
しかし心の機敏が表現し易いという点で
共通している。

もし、未来に
日本語を読み聞きする人がいて、
その人達が当時の標準語以外で
原語に直接意味をみいだすなら、
日本語でしか為しえない表現だろう。
全く同じ事は、現時点では
各方言といわれている全言語体系にいえる。
茨城語の
~だっぺな、は、
~だ+べし+な、と
特別な組み合わせの応用だ。

言語の多様性を蔑視する人は、
いわば自ら、世界を
それまでしらなかった
特別な仕方で認知する見方を失う。
未知の言語の直訳不能な意味なり、
単なる発音、文字なりを知ることで、
心が豊かになるといってもいい。
自文化中心主義のうちでも
言語中華思想は余程、愚かな考えだ。
方言こそ尊いのだ。