2020年1月22日

全学問の最終目的は最高善の追求であり校内で行えるとはかぎらない

ユタボン叩きについてきのう今日で自分なりに2つの文
「勉強は自分でやらないと最後までやりきれない」
「勉強は向き不向きがあるから勉強好きの邪魔しないでくれればいい」
で分析してみたが、もう1個気づいた。
 思うに、勉強の目的が違うのでは?

 ユタボンたたきしてる人達の言動をまとめてみると、おおよそ学問の本質へ言及していない人が多い。中には、太宰治『正義と微笑』を引用し、教養主義の主旨から叩いてる人もいたが、竹内洋『教養主義の没落』以前の議論に思う。竹内氏曰く旧制高校のその種のエトスは後退した。
 米国の間接統治で、日本の教育エトス(ethos。気風、風潮)は実用主義化したのではないか。それが端的にあらわれているのが、就職手形としての入試偏差値序列に価値をみいだす様な、簡易的な学閥差別である。
 しかし、反ユタボン派はこの学閥差別原理を中心教義に集団イジメを正当化してるのでは?
 反ユタボン派は戦後の教育気風として、学閥差別の就職序列に従うよう文科省に社畜化されている。ユタボン風には「ロボット」、モギケン風には「偏差値レーティング」で。どちらも根本で同じ対象、学閥差別原理の不条理を指摘しているといっていいだろう。
 反ユタボン派は自由教育に反対している。

 ちなみに、この学閥差別は、正確にいえば文字通りの学歴(教育歴や学習歴)差別でも、学位差別ですらない。学閥とは入試偏差値順に並べた、東大を頂点とする有名大学の位階制で、対立するのがFランク大学というやつだ。
 反ユタボン派らは、入試での範囲出題クイズのうまさを差別の目的にしている。
 それで、いわゆる学閥(学歴)ロンダリングというのが日本独自用語としてでてきた。(学位を目的にした海外のディプロマミルとは違う)
 落合陽一氏が筑波大から、古市憲寿氏がAO入試で慶応から、共に東大院へ行った様な経歴をさす言葉だろう。学閥位階制の箔づけはこけおどしという揶揄が含まれる。
 ここにあるのは、学問や知識の中身を問わない、箔づけマウンティングの合戦であって、それがいきつくところまでいくと、2018年1月1日、テレビ朝日系列の討論番組『朝まで生テレビ!』で落合氏が「小学校行こうよみんな」と東大閥の間で中卒の村本大輔氏を嘲笑した身分差別的様相を呈する。
 昔でいう階級ごっこみたいなもんだろう。
 つまり、反ユタボン派が目的としているのは、この種の学閥差別位階制への臣従の意であろう。それで東大中退の堀江貴文氏をまだましみたく擁護する意見があって、これには(ガールズちゃんねる内で)イイネがついていた。東大入ってから特にがんばって勉強しなくても、なぜか彼らの中ではいいらしい。

 一方で。
 僕とか、ガチ勉強マニアがわからみると、「いや大学とか特に関係ないでしょ。知識が本体なんであって」となるので、これを自由教育派と呼ぶと、ユタボンが校外学習しまくって立派にやってていいじゃん、としか思えない。
 学校無用論もまあそうなるよねと。だって知識が本体なんだもの。
 確かに付帯的に、同年代集団だか色んな年代の人だかが集まってる場に行けば、同志だか友人だか恋人だかなんだかがえられ易いかもしれない、それも一種の社会性の教育とはいわれているが、これは半分間違ってると思う。だってそれ副次的なものだから学業と分けて出会いやってりゃいいだけである。
 特に僕の経験上、集団教育が最悪だったのは、自分より悪徳だか暗愚さに満ちた品性下劣な衆愚が溢れていた点であって、それだから僕は一般大学を避けていたのである。朱に交われば赤くなる。東大生レベルの馬鹿(だって文科省カリキュラムの下僕でしょ)と混ぜられたら自分もその気風に染まってしまう。
 つまり、この学校社会の擬似社会性は、有害な点も大いにある。最初から家庭環境が良好で、保護者とか家族とかが十分に教育や理解のある人達だった時は、家庭教育のほうがよっぽど身の為だ。
 伝統的に貴族は専任教師をつけていた。パブリックスクールはその世俗化で、更に義務教育はその劣化コピー。
 最高級の教育は一流の哲学者をも一対一で就ける(アリストテレスが教師だったアレクサンダー大王とか。弘道館至善堂での徳川慶喜への第一級の水戸学者らによる教育とか)。費用に限度がなかったら、集団教育で与えられる下流からの害のほうがよほど大きいので、超一流の専任教員を隈なく集めるだろう。
 もともと集団教育は、家庭教師を低コスト化したもの、貴族の子弟への単独教員専属教育の劣化コピー版だったのだから、例えば秋田のこどもの平均学力が常に高いのも、少子化の利点として少人数教育が確立されているのが大きいのではないか。院でも基本的に少数専属で教えるわけで、コストの問題なのである。
 うらをかえせば、なんでイジメ地獄に子供がほうりこまれているかといえば、それが最も低品質で誰でも入れ、最も安い(低所得者にとって、高所得者の税負担による実質タダ)多人数同年代教育によっているからだ。個々の学習進度が無視されるのも、できない生徒の速度で全体が遅くなるのもそのせいだ。
 なぜ反ユタボン派が、学閥差別の多人数同年代教育にそれほど強いこだわりをもっているかなら、その最低級の教育以外の、より高品質な教育を体験または想像したことがないからであり、具体的には少人数進度別クラスの塾でとか、優れた学者個人に就いて学んだ経験がないからにすぎない。
 それ以外にも、通信制の学校など自習に近い形でより容易に飛び級できる学習環境のほうが、いうまでもないが、できるがわにはよほど能率がいい。
 反ユタボン派が公害なのは第一に彼らが「匿名で或る子へ集団イジメをするくらい下流的」だからだが、より大きな害は、多人数同年代教育に最適化なり適応しているほど学習進度が遅い点にある。いいかえればIQが平均より高ければ、その種の集団教育には学習面で悪い思い出のほうが一般に多いはずである。

 冒頭の主題にもどると、学問の本質は真理の探究である。それら真理どもの究極は、全学問の総合であるところの哲学に於ける最高善である。
 然るに反ユタボン派こと学閥差別位階制への臣従者らとおぼわしき衆愚は、この目的を寸分も尊ばない。彼らの目的は、単に部外者たる就職手形の箔だからである。
 辛うじて、太宰の教養主義に関する文言を引き、教育の根本にある哲学(知恵の友愛)への僅かな手がかりをもっている人も中にはいた。しかしその人とて、ユタボン氏が校外で自主的に最高善を追求している点までは見抜けていない。学問は科学知識に限らず、その科学とて学校以外でも探究できるのである。
 アカデミックな、すなわち過去の潮流を受けた同時代のある学派に典型的な知識の束を、政府の認定(飽くまで学者ではないので学問の質をはかれないため特に授業の単位時間での認定)による、学位なる免許制によって修養するかどうかと、哲学という無限の知を果てなく学び続ける営為の間には大差がある。
 ひとついえるのは、どの大学なり研究機関も、所詮はその種の学派の集まりに過ぎないので、所属と真理の間には特に関係がないのである。
 だからこそダーウィンのようただ真理の探究に志した人物の知恵が、我々の知識を新たにした。同時代の大学には別の学派があったが、そちらはもう嘗て迷信を権威づけていた仲間の一派としてしか知られていない。
 学問の本質を知る者は、学閥学派に関わらず、単に真理を探究する。そしてそうであれば、自ら学ぶに際し学校という特定の形をとる必要はない。ひとたび人が学び始めればそこがどこであれ、学校の語源にあたるschole、すなわち「ひま」にあてて、後学の見習うみちをおのずから成すであろう。