2019年12月28日

哲学の語りはわかりやすいほうが良い

自分の上の世代の知識人って、大抵、スノッブ色がすごかったなと思う。前も書いたが、今もそういうやついるけど、劣化バージョンで東京テレビ・ネット芸人というべき学閥差別主義者モドキみたいな雑魚しかいないみたいなもんだ。
 名前挙げるのは微妙だけど、一番ダメだったのがフランス哲学輸入系。
 このまま書き続けてたらだれのことか暗にわかるとおもうが、いわゆるニューアカという世代。
 僕は大江の全小説もこれはひどいと思ったが、ニューアカの本もひどかった。はっきりいってスノビズムしか意味もたない書籍って今後、図書館の奥以外に流通しないと思う。サブカルと逆パターンで絶滅危惧。

 イギリス哲学は経験論系でいちおう自然界にもどるけど、フランスとドイツ哲学の観念化は半端ない。自分が読んでこれはひどいと思ったのは、特にドゥルーズガタリとハイデガー。この点は、色々学んだ結果いえることとして、まねないほうがいい。同じことは京都学派、特に西田幾多郎にもいえると思うが。
 いわゆるソーカル事件が非難対象にしたものの正体は、つまるところ、スノビズムと化している観念論そのもの(しかもエセ数学風)だったのではないか? 日本でいえば精神論。
 村上春樹の文体は相当わかりやすい。だから小ばかにされやすい。しかし哲学はあれくらいの読みやすさを模範にすべきである。

 どういうことかなら、議論を深めるのに必ずしも晦渋な文体を使う必要はない。勿論、絶対たとえ話を使う必要もない。もし抽象的なこととか、曖昧なことをいうとしても、文体そのものをわざと難解にするのは、とてもとても悪い癖である。これを突き詰めると、後進に無駄足ふませる時の浪費でしかない。

 自分はこのような考えかたに至るまで、大変な試行錯誤をした。自分の昔のブログみれば一発でわかる。10作くらい書いた中編の前衛小説なんて余計そうで、ぜんぶあらゆる文体実験である。わざと難読を限界まで試したり、脱構築主義をやりきったり、ノイズで埋めたり、言葉遊びを極めたり。
 結局、哲学的なことを書くにしても、それは他人が読むので、できるだけわかりやすく読みやすいに越したことはない。ところがそんな単純なことがわからないのである、哲学系の大学教育とか受けちゃうと。論文体というべきお堅い記法にこだわって、審査時しかだれも読まない文章を量産してしまっている。

 考えの中身のほうが大事ともいえるが、文体は文体でかなり重要だ。村上文学なんて、文体しかよいところがない。
 自分は茨城北部なので旧水戸学派の地域にあたるが、文人としては野口雨情が地元人である。ほんとに童謡くらいわかりやすい文体でいいと思う。水戸学は実践的だった。観念論よりはいい。
 哲学は、学派、流派というのがなぜか、国とか地域にまとまって出てくる傾向にある。アメリカなら実用主義とか。ここでいいたいのは、自分のあとからくる人達は、自分の経験を生かして、できるだけわかりやすい文体を使い、しかもいたずらに観念論にふけらないでほしい。スノビズムも本当にいらない。