2019年12月28日

科学はいかに助成されるべきか

私が今から文系無用論に楔を打ち込むことをいう。
 これは決定的に日本の大学界、文科省の方針を変える筈だ。

 自分の極めて大きな分類だと、知性には主に2種類ある。一つは総合的知性であり、もう一つは分析的知性である。スピアマンの一般知能因子gと特殊知能因子sと似ているが、こちらは学問論だ。
 アリストテレス学派まで遡ると、広義で数学を専門語として含む自然科学すべては、分析的知能を使う。これを彼らは自然学(physics)としていた。そしてこの習得を前提として、より複雑な人間とその社会を扱う学があり、自然学の後の学(meta-physics)としていた。今でいう社会学であり、総合的知能を使う。
 すなわち、明治時代の帝国大学が理系・文系とした大分類は、より根源まで遡ると、自然学と社会学の2系譜に至る。そしてこの2つは別の学問なのではない。実は社会も自然の一部なのだが、自然そのものより複雑さをもっている。だから社会を理解するには、前提として自然もわかっていないといけない。
(知能と知性は表記のズレでなく、ある知能のもつ性質をここでは知性と書いている)

「物ありてのちに倫あり」と福沢諭吉が『文明論之概略』でいうのはこのことをさしている。例えば物理法則は、社会で動いている車なんかにもあてはまるわけだ。
 いいかえれば分析知性は総合知性の部分でしかない。
 これでわかるのではないだろうか。文系無用論はどこが間違っているかといえば、総合知性を無用としている。人は社会に生きていかねばならない。そうであれば、物理だけ学んで済ましているにはいかない。対人関係もあれば心理も法律も道徳も政治も商売も、できれば社会なんでもわかってないと困るのだ。
 うらをかえすと、これまで「科学者 scientist」と名づけられていた人達は、実は特定の分析知性のすぐれた人達でしかなく、必ずしも総合知性にまさっていた人ではなかった。例えばアインシュタインは原爆開発に署名してしまい、日本に落ちて後悔し、ラッセルアインシュタイン宣言頃から道徳を学びだした。

 英語scienceの訳語である「科学」は、ラテン語で「知ること scire」から生まれている。漢字のほうは、科はわれわれが科目などとして使っているよう、のぎへん(禾、穀類)に斗(量器)で分量、品定めといった意味をもつ。学は子が学びやにいる形。
 すなわち科学は単に、知識を学ぶ事を意味している。
 この科学という言葉は今日、かなり乱用されている。特に「科学的」との言い方は、それがほとんど確実で信用できる、との印象を与える。実証とか反証とか色々な方法で、知識の信頼性を高める工夫は一応されてきたが、実際には、科学は単に知識を学ぶ事であって、それが必ず正しい保証はない。

 ところで理系が役立つ、それも金儲けに役立つので、特定の応用科学に国費を集中させよう、と昨今の安倍政権は文科省ともどもいいだしている。文系無用論がでてきたのはおもにこの為なのだが、上記すべてをかんがみれば、まったく学問全体に無知で、誤った考え方と断じざるをえない。
 第一に文系とはすなわち総合知性のありかたで、われわれが必ず生きなければならない社会のなかでの人間を研究する分野である(社会とは人の集まりなので、社会を学ぶのは人間を学ぶに等しい)。それが無用になることは古今東西永久にない。人が人なかぎりわれわれは社会を学び、より良い社会をつくる。
 第二に科学とは個別の知識科目を学ぶ事を指す言葉である。それは直接金儲けに役立つものもあれば、単に知識でしかないものもある。例えば『古今和歌集』を読んで君が代のもとの和歌をしっていても、あるいは宇宙の背景放射についてしっていても、直接カネはもうからない。だからといって無用でもない。
 もし金儲けによって国費をましたければ、今すぐ経営学や商学、金融工学といった直接それに役立つ分野に最大の資源を投じるべきだろう。わざわざ商用化に当たり外れのある応用生物学、宇宙工学などに分散するのは無意味だ。勿論これは直言でもあるが皮肉でもあり、科学振興は期待収益と別尺度が必要だ。

 これとは別に、査読つき学会誌に大学から出された論文の引用回数を、大学またはその国全体の科学水準の目安とする考え方がある(引用回数主義)。この考えは複数の問題があり、被引用数は必ずしも質や意義の目安ではなく、実際には共有され易さを示しているので、単に人気論文の筆者を恵む指標である。
 つまり、科学振興の目的を金儲け(商用化)のみに求めるのも、引用回数主義のみに定めるのも、どちらも問題がある。前者は知識がどこで応用されうるか基本的に予想がつかない上にそもそも応用されない知識自体にも文化的意味があることに無知だからだし、後者は科学の質を決して代表しないからだ。

 では人類は科学をどう振興すべきか?
 これを一言でまとめれば、逆説的になんの目的もあたえないことである。つまり自由放任。なぜなら事前にどの知識の発見がなんの結果をもたらすか予想がつかないからだ。もし助成金を与えるなら、科学者の努力に対して与えるべきで、成果を評価すべきではない。
 努力を助成するとは、ある科学者の論文執筆の量を高くみつもるべきということではない。第三者からみて、ある研究者がほかのより怠惰または熱心でない研究者に比べ、明らかに自身の仕事に情熱をもち、実際になんらかの進捗がみられる場合、その人を重点的に励ますのが科学文化そのものの育成に繋がる。
 各科学分野には学会があり、それらは特定の成果に賞を与える事がある。しかしこれが成果主義であるかぎり、各学会は、特定の知識に質の差を認めていることになる。究極ではこれは詐欺である。特に偉大な成果に至っては、科学史や潮流論が教えるとおり、同時代の無理解に迫害を受けてきたものだからだ。

 冒頭の主題にもどる。

 上述の科学全分野、すなわち自然学(おおざっぱに理系)や社会学(おおざっぱに文系)すべてを含む概念として、「哲学」という言葉がある。
 原義はギリシア語philosophia(知恵sophiaの友愛philia)で、訳語に使われる「哲」は折が草木を斧で切ること、口は祝詞のりと、神に誓約しさとるの意味という(白川静『字統』)。
 本来、全ての学びは分野を無視すれば、哲学といえる。実際、ニュートンの物理に関する主著の時点では、今日、物理学を意味するphysicsはまだ広義の自然学の意味であったから、彼は『自然哲学の数学的原理』とラテン語でタイトルをつけた。
 科学とは、この哲学の部分と呼ぶのがふさわしい言葉である。
 すなわち、今日の安倍政権や文科省が、商業的、または学会的名誉ある成果がみこめる理系科学の一部へ重点的資源を投入し、その他の科学一般のうち、ことさら文系と呼ぶ人間社会に関する分野を軽視するのは、まったく哲学的なふるまいではない。奥深い学堂の入り口で小銭稼ぎする露天売りの様なものだ。

 最後に、嘗てこの世に現れた全学者らの言葉でも、分析的知性の限界を反省するにふさわしいと私がみるものを置く。それはドイツの哲学者カントが、かれの哲学の最終目的を「道徳神学」と呼んでいた事実である。道徳がもしひとの中にある神性のかけらなら、最善さは森羅万象を学び続けた者の名義である。