2019年12月28日

日韓で美容整形の評価が根本的に違うわけ

日韓は世界からみて双子の様に似ているが、似て非なるところも沢山ある。
 外国人(特に白人女性)で、美女チューバーみたいなのが、結構な割合で韓国ファンなことがある。これなぜかなら、韓国整形文化と相性がいいらしい。美容意識というか、見た目の価値がとても高い文化なので馬が合っている。
 前からネット右翼界で非難の的になってきた点として、韓国は母親が娘に整形勧めるとかいう。実際KPOPみればわかるとおり、歌手や芸能人だと見た目がみんな絵に描いた様に整っている。が顔形は本来多様性があるわけなので、すなわち美容整形している、さもなくば美人ばかり選んでるとしか考えられない。
 日本も戦後はこの韓国化現象が進んだ。理由は視覚で情報伝達するテレビの影響と思う。インスタやユーチューブなど写真や動画で自撮り表現する人がふえたので、ますます見た目重視の価値観が蔓延している。ネットばかりみてると、美男美女ばかり見慣れてしまうので、普通の人の見た目に驚くくらいだ。
 日韓どちらも、三島由紀夫が『若きサムライのために』でいう「プラトニズムの堕落」であるところの肉体主義に陥っている。

 ではなぜ日本より韓国のほうがより一層、見た目重視の価値観が激しいか。

 歴史的経緯としては、朝鮮では宗主国に美女を奴隷として贈っていた文化が背景にある可能性がある。
 いわゆるコンニョ(공녀。公女、貢女)で、日本は幸運にというべきか中国の歴代王朝や元、契丹など外国に支配されなかったので、女奴隷の文化はなかった。しかし類似のを探すと、平安期以後、婚姻政略の役目を兼ねてた女官、侍女や公家の娘、江戸期に各大名が将軍や皇族に嫁がせてた姫がそれにあたる。
 例えば奇皇后は元最後の皇后でコンニョの出とある。日本でも高野新笠は百済系とされるが、高麗や朝鮮の場合もっと直接的に、美貌を武器にコンニョらが宗主国との関係を改善する重要な国家的使命を背負っていたともいえる。そうであれば『孝経』に逆らっても、極めて美容が尊重されてもおかしくはない。
 今日の一夫一妻制とか国民主権からみると想像しがたいが、要は朝鮮半島の諸国が、かなり長期間おかれていた外国支配の隷属状態では、女性の美貌は娘を高麗・李氏王朝からとられるのと引き換えに、政府と関係をつくる手段でもあり、それどころか大出世すれば宗主国の皇后位を占めた例もあったのだろう。
 これ以外にも日本で芸妓(いわゆる芸者)にあたる妓生と呼ばれる人達がいて、歌舞を披露し商っていたとされる。上級から下級までいた点もほぼ日本と同じだが(上級は芸能人みたいなものだが下級は娼婦)、ここでも見た目を重視させる要素はあったはずだ。
 今のKPOPや韓ドラはこの延長上と思われる。

 では日本側がどうだったかというと、一番違うのが『武士道』が記録している精神主義の様な考え方があった点である。例えば今でも「あなたの娘は美人だね」と直接いうより、「(気立ての)いい娘さんですね」みたいに性格的特性を強調する日常語が残っているが、仏教の影響か肉体の価値を低く見ていた。
(朝鮮側だと国教を儒教と定め他の学問は超マイナーだったので、神仏儒など色んな知識が混在していた日本と思想的環境が違っていた)

 なぜその種の精神主義がでてきたかには色んな経緯があったと思うが、一番影響したのが日本仏教の中で特に観念論の傾向があった禅宗ではないか。
 禅問答だと「見た目にみえているものをみえていると思うな」「は?」「喝!」「ぎえええ」みたいなやりとりは普通にあったろうし、結果、仏教一般もそうだが性欲を基本否定させる(浄土真宗以外)のと同時に、そもそも肉体を無とみなしていたのである。心頭滅却すれば火もまた涼しというのがそれだ。
 神道のほうでは、イワナガヒメという女神はブスだからいらないとかいって、コノハナノサクヤヒメとだけ結婚したら、バチがあたって天皇は短命になったと一夫多妻の奨めでしかない説話があるわけだが、この例えを当時の宮内庁辺の神話作家がつくった奈良時代でも既に、地味に見た目重視への批判がある。
『源氏物語』でも、紫式部は末摘花を最悪級の醜女として描いているが、主人公はそもそも見た目をしらないままで交尾し(当時の公家界はそんなのが多く夜這い強姦もどきがよくでてくる)、最初から妄想してた見た目と違いすぎるのを発見しびびるが、末摘花の性格がいたくけなげなので結局世話し続ける。
 江戸時代には武家諸法度下で大名間の政略婚が制限され、上司がお見合い相手みつけてくる方式が武士から中上級の町人にも広がっていたが、この時点で恋愛はハシタナイこととして事実上禁止されていた。それで下級町人みたいに遊郭でしか自由に好きな相手を選べなかったらしく、一目ぼれは不可能だった。
(細かくいうと、たとえば島崎藤村『夜明け前』だと当時の農民もお見合い婚してるわけだが、長塚節『土』みたく普通の恋愛結婚みたいなのも中にはあったろうし、鹿児島のおっとい嫁じょみたいな今日の目でみたら違法な乱交じみたのから、今でいえば強制猥褻か強姦にあたる夜這いもあったと俗にいうが定かでない)

 ここに欧米文化が流入しだし、どう変わったかといえば、自由恋愛が一般解禁されたが最初はまだ素朴だった。漱石も10代だったかのころ病院でみた初恋の人を「気立てのいい」人と表現しており、それどころかお見合い婚してから「美しい細君を貰えると思っていた(が現実は全然違った)」とか書いていた。
 大正期に芥川が求婚して送った、文ちゃん(のちの奥さん)への手紙は面白い。そこでも見た目を殊更褒めるみたいな観点はなく、一緒にいたいという表現の仕方を使っている。自ら死んで初心はどうなったのとなるが。
 昭和からさらにアメリカ文化の移入が起きた。代表的なのは村上春樹の小説だろうけど、交尾を挨拶みたくぽんぽんやるのがクールなんだぜ、みたいなだいぶすべってる勘違いアメリカ化が内部で展開されている。
 実際それに影響受けるずっと前から江戸・東京の性風紀は乱れていたのだが(杉田玄白は江戸の町医として患者の7~8割が梅毒だったと『形影夜話』に書いている)、ここにきて有名インフルエンサーがアダルトビデオ男優と結婚子育てマーケティングとか、都内は性風紀あってなきが如しに近づいている。

 勿論、東京圏の外は内側と風紀がかなりというか大幅に違ったりするので、それは飽くまで南関東の一部の話ではある。

 アメリカ化がはじまった昭和期、三島は精神主義を見た目の評価しかしないアメリカニズムと区別し、「健全な肉体に健全な精神が宿れかし」式に肉体改造で中和しようとしようとした。
 三島の考えでは、精神主義がいきすぎ若死にしそうなヒョロヒョロ公卿が恋愛の理想像だった時代は間違っており、かといって日本男児はアメリカ的筋肉自慢の肉体主義に陥ることもなく、体を鍛えるとともに清心な魂をもたねばならない。(そんなこといい性的少数者でヌード写真集だしてたので気が早い)
 三島に絡んで出世のつるをつかんだ石原慎太郎が、晩年に東京五輪だのスポーツ庁だのを構想しだしたのも、いわば散々オイタしたすえ若い頃ふれた三島的健全観がひょっこり顔を出したものであろう。石原の全小説からいうと、結婚を肯定してるのを除いて性愛観は破滅的で、ほぼ暴力と混同されてるのだが。

 冒頭にもどる。
 韓国は日本ほどひねくれてないともいえるが、別のいいかたをすれば心の価値を、伝統的にそこまで重んじていないかもしれない。最近はまれだが「つまらないものですが」と日本人が贈り物をするとき心をこめていることにしか価値がない、と肉体どころか物質価値すら超えていた。
「もののあわれ」「真心」みたいな本居国学のコンセプトは、本質的に精神主義である。整形美女(美男)いいねとか、やっぱり見た目よくないとセクシーじゃないみたいな、表面的な物の見方は確実に日本もSNS・マスコミ・芸能・広告関連企業ともども毒しているが、日本らしさは本当のところ別にある。
 見た目のよさしか強調されないSNSインターネット空間の中で、白人美女みたいなのが韓国文化に夢中になっているのもよかろう。それはそれでありかもしれないし、現実の素の韓国人との落差で子供も整形すればいいかもしれない。整形外科医的にも資生堂的にもそのほうが儲かる。
 が、心の方が本来尊い。
 なぜなら肉体は基本、うまれつきの遺伝子によっているが、そして性格遺伝子が一部にある(鬱傾向、セロトニントランスポーターの型とか)のも最近わかってきているが、人の性格は、後天的に自分の意志と行動で決まっていく。生まれは不公平だが、心は自ら変えていける。我々は努力を評価しているのだ。
 確かにこれはいくらか古い枠組みで、現実には顔も姿も努力によって変化するだろうし、整形も化粧も筋トレも運動も生活様式も環境も色んな要素があって、しかももっと古い原始的本能はみために偏見をもちやすい。脳の違いで性格にも生まれが決定的に作用しているいわゆる精神疾患の部類もある。そのうえ遺伝子治療とか、遺伝子改造まで出てきているし、エピジェネティクス(表観遺伝学)でいわれるみたく途中で遺伝子のほうが変わる場合すら想定される。
 が、それでも敢えていえるのは、心の価値と肉体・物質の価値を比べ、前者に重きを置くのは、ある人が道徳的努力をしている証拠だからだ。

「とうとさ」は尊貴どちらの漢字をあてるかにかかわらず、伝統的に、精神的価値にあてられてきた語彙だった。最近の女オタク(いわゆる腐女子)は、これまた主に東京圏とか大都市圏の人達がおもだろうけど、彼らが俗語でイケメン(イケてるメンズの略でmen'sは男物ゆえ意味をなさない)と呼ぶ相手にもいう。
 みためはイツクシから派生したウツクシがあてられた一方(はじめ心の価値を評価していたわけだ)、心にはトウトシ(タフトシ)があてられていた。イケメンのmenは男性を意味する英語manの複数形が語源だったものの、ツラも意味する面と混同され、要は顔の整った美男子を尊い! と腐女子がいいだした。
 これら全ての日本人の中の価値観の変遷をみてきて、韓国やアメリカと変わらなくなってきているのが事実だろう。それは人々が道徳性を軽んじ、ある人の魅力を単に肉体自体の価値、もしくは体を飾る物質価値に認め始めている視覚重視の現象で、専らとどまる気配がない。しかし自分は一切従わないだろう。

 道徳的努力のほうが、肉体美や物質的豊かさより重い価値だ、との立場は、武士の世界と一緒だ。清貧を誇り、色恋に目をくれず、学に励んで、戦となれば進んで命をすて主君に忠義で国を守る。もはやそんな硬派な人達は絶滅し、自衛隊すら合コンしていても、尊さについては捨て去るべきではないだろう。