2019年12月30日

「ペンは剣より強し」は原典では法治主義の美化

「ペンは剣より(も)強し」は権力が暴力より強いマキャベリズムの言葉なので、言論が暴力にまさる意味ではない、と或るツイアカ(実名)が発言し軽くバズっており、アニメアイコン(笑)がたかり「そやそや! マスコミガー」みたいなのをいっており、またかやれやれと思ったが、次につっこみが入っていた。
(こちらは筆名アカで)「19世紀戯曲中のリシュリューのせりふなので史実でなく、別の小説でかれは悪役だからかそのせりふもずいぶん曲解されてるが、国の制度、法、思想の重さをさすと読むべき」と、ご尤もっぽいコメントであった。
 福沢諭吉はこのせりふを慶応のスローガンにしてるし調べてみた。

 グーグリズムの例によって暫く「これ違うでしょ」系の浅学断定ブログが沢山でてきたが、日本人の知的水準もそこまで馬鹿にはできないというか、それと別に、すでにウィキペディアの専用ページが存在した。
 原著引用がある英語版もチェックしたが、そこまで外れてなさそうだ。
(自分への暗殺計画が発覚したが、リシュリュー枢機卿は聖職者なので武器をとれない)

フランソワ(リシュリュー配下の一人)
「だが今、猊下の部下どもは武器をもっております。枢機卿猊下」

リシュリュー
「これがまことの事だ!――

まったく偉い男どもの統治のもとで、ペンはつるぎよりも強い。
見よ、この魔法使いの杖を!
――それ自体、無だ!――

だが、達人の手からくりだされる魔術は、
カエサル皇帝どもを痺れさせ、うちくだき、
この騒々しい地球の息の根をも止める。
――つるぎはすてろ――
国々はそれなしに救えるのだ」
――エドワード・ブルワー=リットン『リシュリュー;あるいは陰謀(Richelieu; Or the Conspiracy)』
これが直接の出典で、ほかにも似た様な文言は過去にあったらしいが、ことわざ化しているそのままなのが、劇中のリシュリューによる上述のせりふらしい。

 これはマキャベリズムではない。文脈としては、テロによって政権簒奪しようとしてる人達に向け「暴政より、法治が正しい」といっているのだ。

 つまり冒頭の実名アカは先ず基本解釈がまちがっている。原文ではそもそもマキャベリズムを主張していない。枢機卿はわざわざ暴力を使わなくても法で治められるんだから、まあ落ち着けといっているのである(法は直接無力だが、たちどころに効果を発揮し、実際暴力を振るうより凄いんだよとのたとえ)。
 さらにこのせりふが、原著発表の1839年からときがたつなかでことわざ化し、言論自由の主張に拡大解釈され使われてるのは確かだが、だからといって法も言論の一種ともいえるので暴力より高次元な統治の仕方という意味では、間接的に、ブルワー・リットンは言論権力をかばっているともいえる。
 いいかえれば、その実名アカは2つの点でせりふをまちがって捉えて拡散している。
1.法治は暴政より優れているとの原著の文脈を、マキャベリズム(いわば権力至上主義)と取り違えている
2.原著の文脈は言論(法治)が暴力より強いと主張しているので、「暴力<言論ではない」は間違い

 アニメアイコンは安倍自民オタのネトウヨにありがちな「権力(暴政あり)>言論」との一党独裁ファシズムを至上視している(いわば日本版ネオナチ)。これは客観的にみて彼らがきわめて単純な権力構造しか理解できないからだろう。
 せりふについては実名アカの誤解に、さらなる誤解を重ねている。
 すなわちアニメアイコンは、実名アカの「暴力<言論ではない」をうのみにし、ファシズムちっくなマスコミ叩きにこの誤解を転用して、みずからの結束思想に都合よく、言論を強権以下と貶めている。まあそういう人がネトウヨには大勢いるだろうな、と。明治薩長勢力の暴走から日帝末期までの残党だろう。

 で、最後に正論ぽい事をおっしゃっていた筆名アカの解釈はどうか。
 まず別の小説でのリシュリューの配役部分は自分では確かめてないから不明だが、せりふが史実でないとの指摘も、かつ戯曲の発表時期も正しい。
 一方で、せりふは国の制度、法、思想の重さをさす、との読み方のすすめ部分が懸案だ。
 結局、現実の人物としてのリシュリューは、自分がちらっと調べた範囲では確かにルイ13世の下の宰相(いまでいう首相)として、また枢機卿(日本でいう宮内庁官)を兼ねて、強大な権力をもち、フランス王国を強化した。しかも権謀術数にも長け暗殺陰謀を何度もみぬき、対象者を処刑している(いまでいう共謀罪か)。
 しかしながら上記劇中のリシュリューのせりふは、この筆名アカがいうとおり、現実像と乖離した意味を半身帯びている。マキャベリスト(マキャベリアン)としての実像をもっと理想化し、この劇ではより近代風の法治的良識のもちぬしとして描いているわけである。暴政に憤る、高貴な身分の偉人として。
「国の制度、法、思想の重さ」というのは曖昧な表現であり、この劇中の配役というかそのせりふ部分は、法治主義の美化である。それも思想であり、法政としては制度だから、指摘はまちがってはない。

 結論をいうと、
「ペンは剣よりも強し」
は、原典では法治主義の文脈であった。
 それが延伸され色んな解釈になった。

 福沢諭吉も、知識人の言論活動を政府の外部監査・指導役と定義し(『文明論之概略』)、このことわざを報道権力の威厳にあてはめ使っていた、拡大解釈派の一人だったという事だ。