2019年10月25日

田舎差別禁止法案

 自然や田園を愛する心、そのよさを全く知らないどころか、寧ろ貶めている人達が日本国には大変多く(というかどうやらほぼ一般的にそうらしい)、逆に、都会と呼ばれるビルや住宅、商店の集まる地域がなぜか上位で、田舎を差別できる環境だと思っているらしい。
 これ自体、ただの中華思想をこじらせた代物で、天皇と自称し始めた古代奈良の暴力団長一族(いわゆる豪族)が、中華皇帝をまねたところに由来しているのだろう。少なくとも日本人以外からその種の華夷秩序じみた都鄙差別の言動を聴いたことは、冗談抜きでない。ガラパゴス化が悪い面に出たのだ。

 皇帝のいない現代中国では、少なくとも自分が接した範囲の中国の人達の中に、その種の田舎差別は存在しない様に感じられた。だが日本では、少なくともインターネットや都内のマスコミ発の情報で(非東京圏のメディアではない)頻繁に目にするばかりか、自分から差別してきて恥じない人も大勢いる。
 隋や唐の皇帝から辺境の蛮族として倭奴扱いされていた古代の奈良人や、邪馬台国辺の人達は、その種の中華思想を反面教師にし差別のない国を作るどころか、皇室・天皇制によって、いまだに古代中国風の門地差別を現役で続けてしまっている。中国の悪い面をまねて本国より長く維持してしまっている。

 自分は都内に10年近く暮らして、少なくとも自分の好む物は何一つとしてみつからなかった上に、自分にとって徹底的に不快な現象でうずまっていたので、自分の生まれ育った町程度の、程ほどの田舎の方が暮らし易いと結論した。勿論その背景には自然や田園の豊かさ、美しさ、心身に与える癒しもある。
 或るイギリスの友人と会話した所、寧ろ私の感覚に近くて、田舎を賛美しており、逆の意味でカルチャーショックを受けた。どう逆かなら、日本人一般の中華思想じみた極端な差別の混じった都会崇拝の念の方が、他国に比べ圧倒的に、悪い意味で特殊だったのである。他の国々の人達も私にこの点で似ていた。「田舎(ダサ)い」という、恐らく東京発の俗語にみられるよう、そして平安文学やら風土記まで遡ってもわかるよう、古代中国を模した中華思想・華夷秩序の門地差別は、もはや日本に限って存在するものだった。これが私を一時救済したが、同時に何重にも苦しめた。それは日本人の差別が直らないからだ。
 日本人一般の行う門地差別の根源は、勿論、西日本を主として特定の民族を隔離した部落差別なるものも残っている様だが(東日本では基本的に聞かない話なので実感として知らない)、皇室・天皇制にある。皇室を崇拝している人達は皇居を拝むので、結果、華夷秩序が無意識に採用されてしまう。
 さらに東京圏の人達は、利己的な自文化中心主義の傾向によって、自分達と似た文化(つまり商圏である横浜、京阪神や名古屋、福岡、仙台、札幌など)を礼賛するが、それから遠い地域、即ち農工業の地域を一方的に貶めたり、辱めて恥じない傾向がある。これ自体はただの下品な差別に過ぎないのだが。

 日本の伝統からいうと、寧ろ武士道にみられたよう、その種の商業主義の考え方は同時に「下品さ」として認知される傾向にあるので、実際には東京圏の人達と、都内マスメディアその他に洗脳された人達の脳内にしか、大商圏中心主義の妄想はない。裏返せば、下品な人を見分けられる便利な妄想なのだが。
 江戸時代までは、町人文化は武士階級以上へのカウンターカルチャーだった。その性質は商人文化にいまだに引き継がれていて、倫理的に問題のある悪徳表現を好き好んで行い、社会規範を逸脱するのをよしとする傾向がある。だからこそサブカルチャーともいわれる。不道徳が本流になったら世は乱れるから。

 日本特有の田舎差別の中にあるのは、その種の東京・京阪商人文化に含まれた自文化中心主義に、さらに、天皇を中心とする中華思想がくみこまれた要素だと自分には思える。無論この差別は世界で最も陰湿で、世界で最も悪辣な差別の一種だが、他国に類似現象がなく、国連でまともに扱ってくれないのだ。
 門地差別は違憲だが、現役でそれを吐露して、他人を生まれ育った場所や住所地で公然と侮辱し、人格毀損や権利侵害まで集団でやって恥じない日本人は、少なくとも私が実体験としてネット上で見た範囲では無数にいた。彼らは極悪人であるが、東京政府自体がこの差別に加担しているので違法化されない。

 日本にだけ極端な形で、権威権力や一般的な商業文化と入り混じって残ってしまった深刻な差別の一種が、田舎差別であり、門地差別であり、いわゆる中華思想を含む皇室・天皇制だといっていい。根本原因である皇室の廃止・民間人化と、田舎差別をヘイトに含む違法化による衆愚への罰だけが解決策である。