2019年10月25日

人は業のまま

この1~2週間で、2名のツイッター上にいた人達(荒らしの様な人達)からとても酷い差別的言動をされて、特に2番目のがこたえて脳がずっと泣いたあとみたいに痛んでいるのだが涙が出ない。
 極悪人みたいな人達(少なくともうち1人の方は前から知っていて、確かに極悪人)だったから、荒らしが差別的言動で侮辱しまくってくる、といういつものあしき日本的インターネットにすぎないといえばそうなのだが、どちらの場合も、人の善意を、当人達の悪意で上書きするという凄まじい悪行だった。
 自分の人生の中で、日本人ら(特に東京以西の人達が割合として多い。特に京女は私とどうやら相性最悪らしく確率100%で例外がない)が、私に対して凄まじい悪意の侮辱や差別的言動をとってきたのは今回だけではないのだが、私は他人の悪意を見るたびに酷く傷つくほど繊細な心なので、酷くこたえる。

 今回、自分に酷くこたえたのは、次の様な経緯があったからだ。
 まず自分は明らかにサイコパスといっていい或る人物を以前から知っていて、この人に慈善心で接してきていた。私は善良な人間であり、これは相手の脳の一種の人格障害に近い現象が原因だと解釈することで、最大限思いやっていた。その相手は、自分にも自分に親しい人にも、悪意の極みといっていい悪業を数多してきている。何度もわれわれはそれで酷く傷ついた。その人は一時は自分の恋人に自殺教唆までやっていた、正真正銘の人格障害じみた人物である。
 だが、自分は克己によってその人の個性を認め、何とか愛そうとしていた。
 その克己の努力は大変なもので、自分は自分の実人格をだいぶ改造しなければならなかったほどだった。何しろ殺人教唆を本気でやってくる、名誉毀損は日常茶飯事といった逮捕未然の犯罪者、人格異常者が自殺願望というこれまた嘘を語っていたが故に、何とかその人を助けてあげたいと思ってしまったのだ。その人は神奈川県の或る場所の出身で、今回は酷い差別的言動で私の県を、私自身と絡めて都内から侮辱してきた。東京圏の下種がよくやる言動である。それだけならまだいいのだが、なぜ自分が衝撃を受けたかは、その人に一時的にせよ善意をもってしまった自分の考え方を全否定されたからだろう。

「サイコパスやダークトライアド、ダークテトラドといったネット荒らしの人達に善意をもったり、慈悲の心で接すると酷い犯罪被害にあうので、少しも関わってはいけない」
この経験則を得るまでに、自分は人の善意というものを、育ちの中で信じる様になってしまっていたのである。育ちがよすぎたのだ。
「人の善意を信じてはいけない。特に根っからの極悪人、もしくはサイコパス、ダークトライアド、ダークテトラドの様なネット荒らしを、対人関係に於いて救うことはできない」
この事実が、自分を酷く傷つけたのだろう。この世に救えない命があるという事実が。救われえない人がいるのだという真理が。

 自分は無意識に、自分自身と同じ様に、他人まで性善的だと考え易い。人は誰でもそうだが自分を基準に他人をみる傾向がある。勿論、性悪的なりその濃度なりの高い人達をみたり、彼らの言行をみると同類だとは全く思えないのだが、確かにそういう人達はインターネット上では腐るほどうごめいている。

 自分の両親も祖父母も、きょうだいも、あるいは学校のいずれの教師も、少なくとも中学や専門学校の講師数人を除いて、大学教授もだが、人を性善的に考えるのが当然という人達だったと思う。彼らの教えは余りに現実と違いすぎた。今回私を完全に傷つけ人格を変える理由になったのも極悪人の存在証明だ。文学や映画、RPGの様な物語形式のゲームで描かれる悪人らは、或る程度の人間性を付与されている。だが自分がネットを介して接したその人物は、その種の性質はない。正真正銘の極悪人は良心自体を認知できず、常に侮辱している。だから人を傷つけるのを楽しんでいるのであり、究極まで利己的だ。
 われわれは猟奇殺人犯、殺人鬼、戦争犯罪人などを典型的な極悪人と思い込み易い。確かに彼らも悪党ではある。だがサイコパス、ダークトライアド、テトラドの系譜の人達はもっと冷酷な性悪であり、演技的に良心をもっているかの様にみせかけながら社会にまぎれこみ、事ある毎に人を傷つけて遊んでいる。

 私は人間性を学ぼうと考えた。だからその種の極悪人の変種も、文明の一部に反例として存在する個性と認め、寧ろ愛によって救済できるとイエスの様な考えをもってしまっていた。だがイエスが磔刑になったのも然るべきで極悪人はずっと極悪人のままなのである。愚か者が突然賢者になったりしない様に。

 自殺願望を語っている他人、ネット俗語でいうメンヘラと呼ばれる人達が、SNS上にはごろついている。彼らをはじめてみた時、私はそういう人達について何も知らなかったので、いわゆる善意のみで救済を図ろうとしていた。
 だが今にしてわかったのは、彼らは自業自得でそうなっている場合が多い。
 自殺願望を語っている人を、安易に助けようとするのは、メンヘラ、つまり精神障害者らの泥沼に自分が特攻して、一緒に血まみれになって足を引っ張られ、地獄におとされる危機を意味している。そうであれば、誰も反応しなくなり、人助けしなくなるのは自然な流れだ。自分はただの聖人だったのだ。自分は聖人を超え(その為に完全に自我を滅却し、良心に全てを投げ出す自己犠牲で行動してきた)、神にできるだけ近づこうとした。そうであれば聖徳程度で踏みとどまっているわけにはいかなかった。だから現に、ネットのメンヘラらや荒らしらを救済しようと、自分への被害もゆるそうと15年も努力した。
 だがこの15年間起きた全てを省みると、自分のこの意志――なるほどそれは善意志で、カントにいわせれば自分は模範的な人間の一人だったかもしれない――が真実、正しかったか、この脳の涙が出ない酷い悲痛の状態から、いえるのか。人は救えないのだ。極悪人は直らないし、それは自業自得なのだ。

 全ての人々に救いなどありえないのである。その様な世界観は虚妄で、寧ろ現実は業の中にある。物理法則であれ道徳法則であれ、人は業のままになる。