2019年8月7日

無教養又は学閥主義によるサブカル俗物としての東京・京都オタク文化中華思想

ロウブロウアートを賞賛し何の恥も落ち度も感じない人の本性にあるのは、根本的に幼児退行や愚民化への自主的同調である。その手の人が都市圏、東京大都市圏などに集まっている時、しばしばオタク等と称し、反知性主義やサブカル俗物根性を痛痒なく自賛しつつ、ヤンキーと呼び或る排他性を主張する。
 彼ら東京サブカル俗物の同調集団は、別の反知性主義を象徴させる語彙として「ヤンキー」又はそれと関連づけつつ「田舎」を排外的差別対象として用い、華夷秩序じみた自文化中心観に驕り、耽る。だが上述のよう彼ら自身がオタクアートの無教養や通俗的悪趣味に依拠した反知性主義者なのだ。
 また批評家の東浩紀氏に典型的にみられるが、彼らがインテリゲンチャのそれと称する語彙集は、主に欧米の大学風を上位者とみなした、極めて限定された教養である。国内的には学閥・学歴主義でその種の輸入学問を権威づけ、自身を進歩的と喧伝するのが福沢諭吉以来お決まりの洋学仕草だった。
「ヤンキー」はアメリカ人の愛称を和製英語化し、進駐軍への蔑視語から国内の低学歴な不良を指す語彙に転用されたと通俗的には解釈できるが、その種の分類で特定の無教養を集合化するのは実際には不可能に近い。「田舎」に関しても同じで、田園の中に住まうヤンキー風で高い教養人が当然いるだろう。つまり東氏による「ヤンキー」の不可能な蔑視語扱いを一つの類型とする、東京サブカル俗物根性に重ねられたオタク主義の本質にあるのは、単なる文化中華思想、特にここでは彼が東京出身の都民なので東京文化中華思想である。だが勿論この種の地元依存的自文化中心性自体、ヤンキー的特質でもあるのだが。
「田舎」は訓で「いなか」と読み、漢字は田圃の中にある家を示す語彙だが、和訓の方は居中などを語源とする。この語彙は近年では都市・都会と対義で使われることが多いが、それを否定的語彙に使うのは、単純な中華思想に他ならない。つまり中華皇帝の冊封体制を自文化中心主義に延伸させた差別である。
 差別はする側のみに全原因があり、される側には全くない。元々身分差や門地の別がないこの世界で、中華思想に耽る側がなぜ都鄙差別を行いだしたかといえば、皇帝政の絶対化の為だった。いいかえれば東氏らは大都市サブカル俗物ともども無自覚に、その種の差別を焼きなおしているのだ。例えばイギリスの封建領土は荘園を中心とした広大な敷地を、誇り高き各公爵等が治める形をとってきた。だから田舎は偉く、貴族にとって理想の居住地だ。日本でいえば大名政と類似のものだったが、明治の王政復古で中央集権化が進み、再び大和王朝や平安京の中華思想が文化面にまで伝染した。
 平安以来の京都文化中華思想は京都市「世界文化自由都市宣言」イデオロギーで補強され、東京中華思想へ双京構想的、または首都名乗り合戦式に対抗しようとしている。だが当然ながらこのどちらの文化圏も、中華思想に基づくかぎり単なるエスノセントリズムの変形でしかなく、幼稚な差別観によっている。