集団教育が終わりを告げつつあるという時、その旧体制に現状維持バイアスでしがみつく人達の実態はどんなものなのかを分析してみる。というのも、某少年ユーチューバー関係の自由教育論を書いたところ、それへの反応らしきのが延々と続いていたのを目撃したからだ。
これについておもったのは、擬似的な概括として或る集団を標準偏差に近いIQ分布を持つと仮定すると、これで100付近の或る集団で最も平均的な精神年齢の人にとって、集団教育は望ましいと感じていたのだろうということだ。これは私にとっては発見だった。IQがその集団の平均から上に離れていると、同級生は足を引っ張る、できの悪い、学習の速やかな進捗を邪魔する有害で幼稚な存在と感じるので、飛び級がない限り学校は地獄的でしかない。対して塾は個人教育だから速やかにより高次な段階に進めるし、私立学校でもクラス分けでこれに幾らか近い分ましだ。
またIQが下に離れていると授業についていけないし、例えば北欧で認められている留年もできなければ、義務教育の一律集団教育は当人にとって全く意味をなさなくなる。学習不可能だから赤点を連打し同級生から虐められるだろうし、下手するとこれでぐれてしまったり。つまりこの場合も塾か私立がましだ。
ごく大まかにいうと、この様に集団教育が自分にあっていた、と感じる人はIQがその集団で平均的な人なのだ。逆にこの人はもっと平均IQが高い集団、例えば入学者が選抜された学校とか、多様性が高い集団に入れられると混乱してしまう。いいかえると協調性の名目でおしつけられているのは同調圧力である。今から150年前の明治政府が全体的義務教育を臣民におしつけ始めたのは、当時の臣民らはそもそも子供全体を教育するという発想自体がなかった状態で、武士階級が主な対象だった藩校や庶民の為の寺子屋、もしくは寺院に依存していた教育自体を満遍なく普及させる為だった。つまり時代状況が違うわけだ。
現時点の世界の教育体制をみると、ITの浸透で個人教育が主になりつつある。一言でいうと、個人教育中心になるのは時代の流れで、もはや不可逆である。全体的集団教育はこの意味で約150年間の旧体制だった。こうして、この旧体制への固執は上述の「集団内の平均的IQ」に近い人々の同調圧力であろう。
ところでIQは世界全体のばらつきをみると、既に日本人全体の平均値は上にぶれているといえるだろう(概略値としてPISA成績を参考にする)。この意味で個人教育への進化も日本はどちらかといえば先駆する立場にある筈だ。既に述べた通り、IQが集団平均より上に離れている人にはその方が有利だからだ。また国内に限定してみても、文科省は東大卒官僚が基本だから集団教育の有害な面も自身が身に沁みて知っている筈だし、そうであれば彼らが旧体制に固執する理由があるとも思えない。つまり教育改革に二の足を踏む可能性は殆どない。寧ろ国際的なウェブ教育の流れにあわせ、義務教育は改革されるだろう。具体的には単位制のオンライン教育が基本となる。その経過では、生産様式が情報を中心とする様になった現状、量産型ホワイトカラーの労働者が役立つ余地はAI代替でどんどん減り収益率も低下することだから、自然に個人教育を主とした成功者が出現していって集団教育の合理性は低下していくだろう。
一方、守旧派は飽くまで集団教育や公教育を維持しようとする。彼らがどう足掻こうと時代に逆らえる筈もない。つまり最初にあげた某ユーチューバーをそしる大の大人ら、そして個人単位の自由教育化に反抗している日本人の一部は、単純に現状維持バイアスに耽っている愚民ということになるだろう。
しかし、この愚民の存在が生産力の上昇にとって邪魔になった政府は、一気呵成に教育体制を変革し、彼らの懐かしがる集団教育の公学校を潰していくだけだろうから、なんの憂いもいらない。教員は放送授業を主に行う様になるだけだ。協調性は集団教育なしにはぐくめるのは150年より前を省みれば明白だ。現に大学のレベルだと国立民営(法律上は私立だがはじめの設置者は国)の放送大や私立のサイバー大学、海外含む各大学の公開講義もある。あるいは私塾という形なら何々大とか何々塾と称する(まあしばしば現行学校教育法からいうと矛盾している名称だが)、個人オンライン教育が普及していっている。通信制の高校という意味では結構沢山あるだろうし、いわゆる全日制の普通科だけが高校だという考えは当然間違っている。同じことは中学や小学にもいえる筈である。ではなぜ同調圧力の協調性にこだわる親や保護者がいるかだが、彼らは自分の教育思想、人生観を子供におしつけているだけなのである。
この子供の自主性を尊重する教育という概念としての自由教育は、既にかなり以前から教育学の中で考察されてきているわけで、例えばモンテッソーリ教育とか自由学園みたいに多少あれ実現済みのものも含め、デューイによる生徒の自発性を生かす教育論が実践されていく経過にあるといえる。もっと遡るとルソー『エミール』とか孔子『論語』の啓発論あたりに行き着くかもしれないが。某少年ユーチューバーの両親は称賛に値すると私は書いた(「ゆたぼんは自由教育への水先案内人」)。それは上述の思慮を鑑みると或る意味当然というべきだ。要は彼らがデューイの主張に有知か否かに関わらず自発性教育を個人の家庭単位で実践するという高い良識をもっている御両親なのだから、某少年は恵まれていたのだ。
そもそもデューイが理論化し今日の家庭教育が普及する以前から、恐らく自発的発想の点で抜群だったエジソンの様、母が賢明だったがゆえ大成した人物は存在したわけであり、勿論、全体的集団教育が政府により行われる以前からその様に文明化を進めた先人らがいた。つまり受動教育は非民主的なものだ。総じて、協調性の涵養という建前で生徒を受動的な暗記と試験で平均値に近づけようとする保護者らは、全体的かつ結束的な臣民教育を是としていた明治政府の国家社会主義体制をいまだに保守しようとしている。この機械人間作りを企業戦士の育成に延長しようとした戦後政府の方針も、事実上破綻している。
単なる国際経済の進展で、昭和・平成政府の旧方針は維持不能になり、必然に受動教育は解消され、個人教育に成功した少数派を模範としながら、文科省や後任組織も自発教育へと舵をきらざるをえないであろう。その時、漸く全体的臣民化を強要していた皇室中心主義による義務教育の頚木は外されるのだ。