自らの持てる全能力を自らの共同体に提供していてもなお、衣食住や娯楽といった必要十分な生活保障を与えられないなら、その様な共同体は生きるに値しないといっていい。裏返せば或る人が自由の範囲で最大限の奉仕をしているのにふさわしい対価を与えない共同体は悪意の仲間であり、また仮にその種の奉仕が対価を要求しないなんらかの無償のものだったとき同様に生活保障を与えないなら、その共同体は集団虐殺を目的にしている邪悪な仲間でしかない。
昭和、平成、令和初期の日本がその種の悪意かつ邪悪な共同体なのは役所の水際作戦やなんらかの無業者または自由業者を無職やニート、引きこもりなどと分類し国家ぐるみで虐待する身分差別、あるいは浮浪者への冷酷な扱いで明らかなので、日本が生きるに値しない悪しき人々の集まりであり、そこで海外脱出の金銭や意欲、手段が与えられなかったため自殺していく人の善意もまた論証される。そして悪意ある集団虐殺が目的である様な共同体は、皇室と名乗る収奪主もろとも滅亡のみが相応の末路なのは確かである。
勿論彼ら日本国民全体が善意を回復できれば、そして自らの共同体に生まれきた人々、またその共同体に参加した人々を等しく愛する様になれば、全国民への生活保障を憲法通り履行するばかりか、これまでの悪業を反省し経済弱者を進んで救う様にもなるだろう。その様な国、都道府県、郡市町村、家庭、或いは個々人の共同体に生まれ変わらない限り、今日の日本で既に、どの様にも生きる手段を持たなかったがゆえ唯一の善意として死ぬしかなかった自殺者を責めるのは根本的に、悪業にさらなる悪業を重ねた甚大な過ちに過ぎないといえる。