2019年6月13日

慈善に値するのは聖人であり俗人ではない

卑しい人と親しめば人はその人に似る。そしてこの世で最も難しいのは、卑しい人とのつきあいを避けて生きることだ。どう控え目にみてもこの世は卑人(不道徳な人)で溢れているし、人は孤独に耐え難い。だからゴータマは「修行の全て」が良い友を得ることだといったのだ。
 孤独が耐え難く、忍び難いと彼も認めているが、やはり人の憂いは卑人の持ちくる悪業の災いを置いて他にない。彼が出家や脱俗を勧めたのは全く同じ理由からきた徳で、凡夫の考える類の世俗的幸は、実際にはなんの幸福でもない。それはただ同調的安心といった類の偽りの幸で、実際世人は大いにその内にあって悩み苦しんでいる。
 この世で期待できる幸福は世俗の憂いがないことで全てであり、それ以上の栄華を望んでいる人達は蜃気楼を追いかけているのだ。
 善友は脱俗的な志を持ち、悪友はこの逆に世俗化を求める。善友は得難く、悪友は得易い。否、悪友は世の殆どを占め溢れ返っている。恋人や愛人も異性の友連れと考えれば、事情は同じである。
 悪友への同情は災いの種に他ならない。慈善を向ける対象が悪徳に満ちた人かをよく観察せよ。この世には悪意を持ち他人に害を為し恥じぬ俗人がいる一方で、善徳の故そこで集団虐待され苦しむ聖人もいる。慈善に値するのは実際には後者だけだ。