2019年6月14日

日本礼賛者は没落の兆候

あれだけ大量に湧いていた日本すごい系の自画自賛キャラって、本当に薄気味悪かったにせよ最近殆どみなくなったが、結果からいうと没落期にわいてくる系統だったらしい。多分、現実でも彼らはそうしていて、現実逃避の為に嘘をつく種類の人達がいるということだ。今後、この経験則は人生で活かす。
 日本すごい系の人達をカテゴライズする概念は今思いつかないが、ネット右翼といわれていた人達の一部と重なってる。しかし彼らが湧いていた時期というのは、ソニーがアップルどころかサムスン、ファーウェイにもスマホ市場で負けまくった様な時期に該当し、はっきりいうと旧日本企業凋落の期間だった。戦中に「日帝大勝利」といって敗戦続きの現実から目を背けていた人達と、日本すごい系の人達は全く同じ種族で、戦後も相似行動をとった。確証バイアスの糊塗を科学的・批判的思考より優先した。この種の人達というのは遺伝か文化かは不明だが、仲間にしない方が賢明だ。大失敗の原因なのだから。
 高度成長期の世論は、恐らくだが「日本はまだまだ」みたいな逆に謙虚な自己批判的論調があったのかもしれない。誰かが戦後知識人は日本批判するほど偉い、という雰囲気があったと述べていた。がその雰囲気は、第二次安倍政権が成立後完全に失われ、知識人がほぼ死滅した。自称文化人の商人だけ残った。安倍以後の文化人と称する人達の実態はネット芸人で、ほぼ御用学者か、ネット商材とか一般人向けの心理学っぽい通俗科学本とか、講演で食う類のえせ知識人であって、ほぼ尊敬に値しない。ツイッター芸人の類も同じで、まあ金儲けしてるだけだ。
 知識人は社会世論に批判的で、当然、政府には外部から第三者として警告や長期的大局観により指導的役割を果たすと、福沢『文明論之概略』で定義されている。こういう人は、私の思いあがりでなければ日本で私しか知らない。ほかの人らはただひたすら高踏的商人だから、私は国内言論人で尊敬する人いない。
 東洋の学者の系譜でいうと、諸子百家あたりから読書人は政治哲学者を最高峰とする。日本もその伝統が多少あれ影響し、少なくとも古代の歌人くらいから始まって民主主義を再獲得しなおすものとかいってた丸山眞男くらいまで繋がってる。現時点で日本すごい批判がなかったのは、批評水準が低いのだ。
 日本すごい系テレビ番組が席巻したのは、自民党ネットサポーターズクラブのネット右翼醸成、2ch等でのネット工作が下敷きになり、安倍氏が直接、テレビ局や新聞社に圧力をかけ始めたくらいからめだってきた傾向だった。報道自由度も50位以下とかおちぶれていった。要は独裁者のファシズムだった。あの期間、御用学者と呼ばれる東大だの早慶だのの学歴をもつ中途半端なえせ文化人がどんどん政権に擦り寄って、忖度に継ぐ追従で金儲け三昧していた。私はそれを眺めながら、なんて卑しい連中だろうと心から軽蔑していたが、当人らは朝まで生テレビだのニコ生の正月放送だので威張り尽くしていた。
 日本株に投資しているという関西人のがきんちょが、自分に「またアベノミクスやってくださいよ」とか煽ってきたこともあった。要するに自分の金儲けの為だけに安倍氏をもちあげている、本当に見たこともない様な下衆が全力で調子に乗っていた時期だった。しょぼいバブル期で、弱肉強食を礼賛していた。

 日本すごい系の人達とはなんだったのか? 一言でいえば衆愚だが、どんな衆愚だったか。彼らは媚びてくる愚者といった類の人格で、奸臣であり、現実の日本はどんどん衰退していても自惚れに有利な証拠ばかりを、統計局の三文官僚に不正させながら集めていった。赤点を満点扱いしていた。
 一般論化すると、賢民と愚民がおり、日本すごい系の人達は愚民だった。そして愚民を味方につけた安倍政権は長期化したが、それは小沢一郎氏の言葉を借りれば「悪夢」の延長だった。衆愚政治の時期でもあった。
 偏りすぎれば揺り戻しがくる。それもより大きな反動が。
 延々と日本が衆愚化し、衰退し続けるといった流れには恐らくならないだろう。少なくとも私がみている範囲では、明らかに自分のかね欲しさだけのために株式市場にいまだに公金を注入してほしがっていた品性下劣な最下等の人間1人、2人くらいしか、安倍政権なる独裁政権を支持している人はいなかった。
 今後、安倍政権が倒れてからは知性の復権が興り、これまでテレビやネット芸人としてうまくやっていた連中はほぼ表舞台から姿を消し、忘れ去られるだろう。明らかに俗受け狙いで質の低いことばかりしていたのは誰もが見ていたのだから。一時的な退潮にすぎなかったのだ。本来の知性は畏敬の念を呼び起こす様な類のものであり、一般大衆には到底理解できないし、通俗科学の様に常に何らかの日用性を伴うものでもない。当然、人気とりの様な金儲け自体とも関係ないし、政治言論としては当為を示すに留まる。現実的解決策は政治家自身、議員自身がみいだすもので、住み分けがあるのだ。
 今いわれるべきことは、新自由主義を否定し、国民全てができるだけ幸福に生きられる様な、そして庶民の味方として弱きを助ける勧善懲悪に繋がる様な考え方の必要で、経済弱者中心主義といった法制だ。それが本来の社会正義であり、いわゆる調整的正義である。現自民党は全くこの役割を果たしえない。なぜなら配分的正義、つまり能力に応じた成果を配分することは市場経済が担っている部分なのに、安倍氏はこの商売の役割と、そこで生じた極端な不公平を政治が整え直すという役割の違いを少しも理解していないのだ。配分的正義と調整的正義は異なる。しかもどちらも必要だ。
 日本すごい系の人達は、単に政治学、経済学、その他に無教養であったばかりでなく、根本的に人でなしであって、弱いもの虐めを素で賞賛していた。しかも彼らは自分が勝ち組だと誇り、現実には世界で、或いは国内で負け続けていた。勝敗二元論が幼稚なのは無論、国家社会主義を本気で後押ししていた。
 これから我々が見られるのは、日本すごい系の人達の無残な没落経過と、安倍氏への猛烈な反感からきた自民党の解体だと思われる。隠し切れなくなった敗戦は、やがて真の憂国者によってみな暴かれる。最初から安倍独裁政に評価すべき点など殆どなにも見当たらなかったのだが。