2019年6月30日

哲学と物語の違いについて

以前(今から数ヶ月前だったと思う)、ツイッター上で次の様なやりとりをみた。
 Nという匿名の人物が、Iという実名の人物に「左翼」等と言及され、反応した。Iによると、ソクラテスは貴族として矢面に立つ覚悟で哲学的言説を述べていたので、それに比べるとNが匿名で活動するのはおかしいという。
 Nは哲学修士をもち、(当人によれば安月給で)会社をやめてからツイッター、ブログ、ユーチューブなどのSNS上で哲学系、高等遊民などと名乗り、匿名かつ覆面で言論活動をしていた。IはI自身もユーチューブ上に動画をあげており、特にNのユーチューブチャンネルをみて上述の批評を行ったとみられた。ところがIは、ツイッター上でNに真意を問い質されると、半ば謝罪まじりにはじめの意見を、間接的に撤回しはじめた。具体的には一般庶民が実名かつ顔を現して活動するリスクを省みると、必ずしも個人特定可能にするのは義務ではなかった筈で、したがってはじめの指摘は誤りだったとその場ではしていた。
 その後、私はIのユーチューブチャンネルも観察したが、Iは自身の新たな動画の中ではじめの意見を繰り返す場面がみられ、要はIの中で、Nと直接やりとりした時の弁解は決して本意ではないらしい。つまり哲学者は貴族たるべきで正々堂々と実名かつ顔を現し、一個人として活動すべきという立場なのである。
 Nの方はどうかというと、ツイッター上でNや、その場でNに上述のNの真意を聴き取ろうとした私までブロックし、そればかりでなくその場にいたNの取り巻き達を半ば扇動する様な形で「議論は苦手だ」「誰かまとめてくれ」「私は修士だから金をとる」等といい、哲学的討論そのものから逃げてしまった。

 これらをみていて私が感じたことは極めて沢山あったので全てをここで述べきるのは難しい。因みにその場で私はNの取り巻き達の一人に話しかけてみたところ、「Nに対する名誉毀損になる」等、匿名のNにそもそも法的に存在しないだろう名云々をもちだしながら冤罪をかけようとする素振りがみられ、私は呆れた。このNの或る取り巻きは、全ての取り巻き達がそうではないにせよ、Nから得られる私的便益のみに注目し、そもそも懸案の哲学、つまり「匿名・実名問題」に関心がないのである。またNの動画を見る限り、哲学というより、アカデミックな思想史を素人向けにやっているといっていいだろう。
1.IはなぜNを「左翼」と呼んだのか
2.Nはなぜ匿名なのか
3.哲学者は貴族たるべきなのか
4.貴族または哲学者は実名・顔を現すなど個人特定可能であるべきか
5.匿名・覆面で活動する者に名誉は存在するか
6.匿名は卑怯か(またこの場合、匿名のNは卑怯か)
7.哲学は対話術的なのではないか
最低でもこれらの疑問集が私にはあり、IがNに議論をもちかけた形になっていた以上、最後までこれらを詳しく解明すべく哲学的に対話を続けてほしかったのだが、少なくともNの方は上述のようブロックで逃亡してしまい、議論が成り立たっていなかった。それで私自身が事態を分析し直すしかなくなった。
 上述の話の中で、IとNの間でソクラテスの位置づけがやりとりされていた。そこで私は次の様に思った。古代ギリシア史上はじめの哲学者はプラトンによればタレスとされている(ブリタニカ国際大百科事典、小項目事典)が、私はソクラテスがそれにあたると思う。なぜなら対話術の基本に忠実だったからだ。より詳しくいうと、タレスは万物の根源を問うた人として名を残しているが、これは狭義で最初の物理学者(後述)の仕事と呼ぶべきであり、知恵を友愛するphilosophiaの原義により近い活動の典型としていえるのは、詭弁家に反定立を提出する助産術を得意としたソクラテスの問答に最もふさわしく当てられると私は考えるからだ。「はじめの哲学者」は上述のプラトンによる定義でタレスとされるのが教科書的回答だろうから、私の解釈は現時点で一般の通説ではないと思うが、この解釈によると、ヘーゲルが後に定義した対話術的運動、つまり正反合の定立展開をうまくやる知的能力が哲学なるものなのである。(この点についてより詳しくは「日本の特殊な匿名卑怯者文化の改善について」に記述済み。具体的には、タレスは万物の根源を水とした自然哲学者なので今日でいう狭義の科学者であり、彼はいわば形而下のもの、物理的なものに思考を限局したので私は彼を最初の物理学者と考える。対してソクラテスは未知の自覚(無知の知)を通じ徳という純粋に形而上学的・後自然学的な概念をみいだしたので、狭義の哲学の始祖といえる、と私は考える。即ちカント三批判書以後の学問分類に習った再定義である)
 だから哲学者というのはある種の称号で、諸々の思想家の中でも特に、この対話術的な思想を色濃くもっていた人にあてられるべきなのだ。
 私はその種の考えをもっていたので、上述のIの意見(哲学者は堂々たるべき)には一理あるのではないかと思った。Nのよういずれかの教授という肩書きにある者から、哲学の学位を与えられたことが哲学者なるものの定義でないのはそうなっていない者が多数いる限り明らかで、Nの学位誇示には疑問がある。Nによれば匿名で言論活動した偉人は多数いた(よって匿名性と言説の重要性には関係がないといいたいのだろう。Nの逃亡で詳細不明)。Iの指摘の本質をNは誤読している。Iの指摘は自らの言論に責任を進んで取る貴族精神がソクラテスの姿勢で、哲学を語る以上それに学ぶべきではないかというわけだ。

1.IはなぜNを「左翼」と呼んだのか
私がIの動画を網羅的にみて調べた限り、彼は別の箇所で類似の言動をとっている場面があり、Iの中で「左翼」との語彙は否定的な意味をもっていることがわかった。恐らくIの左翼とは世間的教育体制、特に労働者の再生産を促す文科省的教育秩序を指しているらしい。「左翼」は一般に、フランス議会の議長席から見て、庶民が座っていた左側議席からきた言葉で、広義で労働階級を指すといっても間違いではないから、IはNを庶民的だという意味で、はじめ「左翼」と呼んだ可能性がある。つまり、Nの体制順応的なアカデミズム加減を批判的に評した言葉なのかもしれない。
 この批評的観点は、Iの動画等で彼の立場をある程度省みると、半分はあたっているが半分は間違っている。なぜならIの方はアカデミズムの本流からすれば修士で学外に出てしまった意味で、博士課程を経て教授職を得て行く研究者の王道から外れているからだ。つまり現実のIは体制順応できていないのだ。
「左翼」の語は、マルクス・レーニン以後(厳密ではない)、革新の意味を伴いはじめたから、そもそもNがユーチューブ等で一般人向けに主に哲学史的な内容を語るのは経済学の意味で革新的(イノベーター理論を受けた、innovativeの訳語として)なので、その意味では適切だ。がIの含意は上記の方である。
 要するに、IがNをはじめ「左翼」と評したのは、(恐らく偶然に)経済学の文脈で「革新的」という意味ならほぼ適切だが、I自身が本来いいたかったはず「アカデミック、体制順応的」という意味では半分正しく半分間違っている。だからこの点、Iはもっと適切な語彙で詳しくNの言論を評するべきだった。
 もっと深堀りすると、Iも自身のユーチューブチャンネルでNと類似の、彼自身の哲学的語りを流していて、いわばIにとってNは競合だった。また現時点までの様子では総視聴回数はNが上で、そもそもIはチャンネル登録者数が規定に達しておらず収益化できていない。つまりNはより大衆受けしているわけだ。Iの動画の中でNについての言及はしばしば出てくる。その中でIは、「Nが一般受けする編集をしている」「そもそも一般大衆は語りの中身より肩書きしかみない」「その上Nの語りは凡人向けによくできている」など評していて、Nの革新性を羨ましがっている節があった。要は収益の競合が背後にあったのだ。
 Nはツイッター上で、ソクラテス解釈を披露した美術家・写真家と名乗るIへ「美術家なら美術だけやっていればいい」と暴言を吐いた。これはただの謗りだろう。だれがどんな言論をしようが、法的に他人の権利を侵害しない範囲でその人の自由だからだし、そもそも複数の分野で業績をあげる人もいる。要するに、IとNはユーチューブ上で哲学的語りをする点で競合していたのだが、Iは「左翼」との多くの解釈の余地がある言葉でNを評したり、匿名の哲学者は貴族たる誇りを欠いていると指摘するなどして、Iによる謗りを買ったわけだ。Iはそれ以上深入りせずチャンネル運営に集中し、議論は流れた。

2.Nはなぜ匿名なのか
現時点まで私がNを観察した限り、これは確実な証拠がないため理由は不明だ。しかし既に述べたようNがツイッター上で吐露していた範囲では、Nは匿名で言論活動していた偉人を引き合いに出していた。この点をもう少し詳しくみていく。
 Nはツイッター上で、(匿名の言論活動が正当なのを証明するには)「シェークスピアを出せば十分」といった。これはその場にいて「どうしてそれで十分なのか」と問う返答がNに来ていた為、確かに不十分すぎる説明である。そもそも一般的命題と、個別的命題は異なる。例外で一般論を語りえないのだ。私はその場で「言論の自由がなかった時代、進歩的言説が体制を揺らがす可能性がある際、実名だと表現する側が権力や大衆等から弾圧を受け、命の危険があった。だからのちに言論の自由という権利が整備された。しかし言論の自由がある今日で、わざわざ匿名にする理由がどこにあるのか?」とNに問うた。Nはこの種の疑問に回答せず、上述のよう「誰かまとめてくれ」「議論は苦手」等といいながら取り巻き達に同調を煽り、この問いを提出した私をブロックしてしまった。つまりなぜNが匿名・覆面なのかの回答が得られなかったので、現時点でもなぜ彼が匿名なのかについては情報がなく、基本的にわからない。
 唯一ついえるのは、Nは過去の匿名で言説していた偉人の存在を、自らの匿名性を正当化する根拠にしていたということだ。この論理構造が正しいかというと、決して正しくないだろう。いわゆる伝統に訴える論証、詭弁にすぎない。過去正しかったからといって現時点でも同じ理由で正しいとは限らないのだ。

3.哲学者は貴族たるべきなのか
Iがソクラテスを引き合いに、誇り高く自らの言説の責任を進んでとるべきだという意味で、実名で顔を現し個人特定可能な条件下での毅然たる態度を哲学者の必要条件としたわけだが、匿名で重要な言説が著されたこともあるという意味ではNがいう必要条件とずれがある。
命題1「実名かつ顔を現すのは、哲学者である為の必要条件である」
命題2「実名かつ顔を現すのは、哲学者である為の必要条件でない」
Iは命題1、Nは命題2の立場なわけだ。ではなぜこの種の意見のずれが出てきているかの私見を次に述べる。
 結局のところ、Iは哲学者は責任を取るべきだ、つまり或る人格が論理的一貫性を持つと前提しなければそもそも対話に値しないといっている。いわゆる対話術に基づく討論の基本である。ところがNはこの立場の一般論を理解していない。Iみたく個別に、匿名でも論理的一貫性を保てると信じているわけだ。
 或る個人の言説が匿名でも論理的一貫性を保つ為に、偽名が使われる。厳密な匿名では確かに、相互に矛盾する言説Aと言説Bを区別できないので論理的一貫性は全く保障できない。すなわち、ここではNは、厳密には「偽名なら論理的一貫性が仮設できるから必ずしも実名である必要はない」という立場である。しかし偽名では、日本法の範囲で、判例を参照する限り必ずしも名誉が保障されない。或る偽名が個人情報と密に結びついていた時、名誉毀損が成立するという判例はあるが(東京地判平成9年5月26日、同事件控訴審の東京高判平成13年9月5日)、実名でそうな場合より遥かに通用範囲が狭くなるのは疑えない。つまり、偽名による言説では、論理的一貫性が場合によっては担保できるにせよ、これまでの日本法の解釈では個人特定不能なら名誉までは保障されないわけだ。だから偽名で貴族的な扱いが期待できるかなら、基本的にできない。偽名では時に名のある貴族どころか人格権も十分に保障されないわけである。
 より詳細にいうと、そもそも実名で顔を現す理由は、個人特定可能にし、名誉などの人格権を、言論の自由の範囲で法的に保障できる前提を作り出すことといってもいい。個人特定不能な匿名ではこれは完全に不可、偽名では個人特定の可否によって、時に部分的にしか保障されない。よって、Iが哲学者は貴族たるべし、というある種の義務を語る時、内的には2つの意味があり、1つは論理的一貫性がなければ対話にならない(詭弁防止)、もう1つは名誉がない者は貴族でありえない(責任論)、なる2つの観点だろう。恐らくソクラテスは両面をもっていたから死刑に服したといえる。
 Nは上述の命題2の立場で、詭弁防止や責任論を回避しても、或る匿名・偽名の言説自体が哲学的なら問題ない、としているのだろう。孔子「人を以て言を廃せず」に近い立場だ。問題は、Iの義務論は言論の自由が保障された先進国一般の環境下で常識的だが、日本文化圏では逆に匿名言説が大手を振っている。私はNとIにこの「実名・匿名問題」、特に日本文化圏でのガラパゴス化した、悪意ある匿名犯罪文化の分析を期待していた。だが彼らはこの問題にほぼ立ち入ろうとせず、議論が流れてしまった。しかし私はこの問題を社会学や比較文化論の研究課題、しかも解決すべき日本人の倫理的宿題と重く思っている。
 哲学者どころか一般国民が匿名を好み、貴族どころか犯罪集団と化して集団ネットストーカーや集団虐めになり、世間の衆目を悪用することが日本では当たり前の様に行われており、一言でいうと匿名の衆愚化が社会病理現象として諸々の国家的悪意の原型になっている。だから匿名は安易に肯定できないのだ。Nは巨大匿名掲示板を巡る数多の訴訟、ハセカラ騒動、aiueo700事件、その他西村博之氏ら日本のIT業者が2chやニコニコ動画等を通じてつくりあげてきた匿名ネット文化なるものがどれほどの社会的犯罪や悪意ある負の言説をもたらしてきたかに恐らく全く無知だから、匿名を暢気に容認していられるのだ。フェイスブックを中心にしたアメリカ発の実名ネット文化では、少なくともヘイトに対する一定程度の抑制効果が働いて、日本における匿名ネット文化に比べればだが日常的に犯罪者の巣窟となっている傾向は少ない。ユーチューブはグーグル傘下で、日本では必ずしも匿名ネット文化に属していないのである。
 日本には皇族を除けば制度的な貴族がいない。では精神の貴族がいるかだが、匿名で卑しく振舞う下衆ばかりの世界で、堂々と名誉ある行いをする(公の討論からも逃げない)貴族的人物は少ない。だからこそIが指摘した内容、「哲学者は貴族たるべし」は、今日の日本で極めて重要な指摘だったと私は思う。

4.貴族または哲学者は実名・顔を現すなど個人特定可能であるべきか
3とも幾らか重なるが、貴族がわざわざ名を伏せて活動するならそれはなんらかの尊い目的がなければならない。例えばみせる為に善行しないよう、匿名で寄付をするといった場合だ。哲学者が精神の貴族なら同様である。

5.匿名・覆面で活動する者に名誉は存在するか
上述のよう、匿名の名誉は法的に存在しない。では倫理的に存在するかだが、憲法や国際人権規約が定める最低限度の人格権しか保障されない。偽名では場合により、法的にも倫理的にも名誉が制限される。覆面は匿名性の要素なので、名誉の為にならない。ここでいう名誉は、俗物的に有名無実な名利ばかりを追いかけるといった傾向を指すのではなく、或る行いが誉れに値するかそれとも非難に値するか、人道に照らした内容を指している。特にここではソクラテスが自ら刑死に服した判断が主題なので、或る行いが正義に値するかがここでの名誉の基準である。

6.匿名は卑怯か(またこの場合、匿名のNは卑怯か)
先ずNに関していえば、上述のIとNのやりとりにおけるNの振る舞いは、名誉に値するか疑問が持たれるだろう。なぜなら「美術家(Iのこと)は美術だけやっておけばいい」という謗りは、Iの言説の正当性と全く関係のない論点ずらしでしかないからだ。Nはそのやりとりの中で、彼の立場として、詭弁防止や責任論を含む貴族の義務にかかわらず、匿名でも言説自体に哲学的価値があれば問題はないとした(と解釈できる)わけだから、Iがはじめに疑義した「実名・匿名問題」自体を匿名擁護の点から討議すべきであり、Iの職業の専門性は何の関係もない筈だ。
 では匿名一般が卑怯といえるかだが、個別では上述の匿名の善行といった場合もありうるが、一般にはなんらかの悪行または醜行をするとき世評から責任回避できるよう匿名を使っているのが日本人全般の日常だから、特に個人特定可能な条件下で何かを堂々としていなければ往々にして卑怯といえるだろう。
 またNの取り巻きの一人が指摘した「Nの名誉」なるものが法的に存在しうるかだが、偽名に対する過去の判例を見る限り、具体的に裁判で争われない限りはっきりしない。一般名詞を使った匿名・覆面ユーチューバーの言論活動で個人特定可能かだが、第三者としては特定できないといえるのではないだろうか。
 IはNを「左翼」とかなり否定的な内意と推測される文脈で評したり、匿名で哲学的言説を弄するのは貴族的でありえないといった指摘をした。対してNはIを美術家は美術だけやっていればいい、匿名でも哲学的言説は可能と反論しつつブロックした。が、Iは実名、Nは匿名だった。日本人の一般大衆は全般として卑屈なので、海外の一般的な人類と違って個人特定不能で責任回避できる匿名でのネット言論を好む。なのでNの方が彼らの心理的特徴に近く、日本人世論はNを擁護しがちかもしれない。だが法的にみると匿名のNには十分な人格権は保障されないのではないだろうか。Iは実名だが、「左翼」と多義的に解釈できる語彙でNを評したことについては誤解を招き易かった。N自身の動画をみると彼は政治的無関心に近いと称していて、一般的な意味で政治的な左翼ではない。要はネット右翼がよくやる類の左翼レッテルに近い侮辱表現とも受け取れるので、これ自体は問題があった。
 ただIはその後、少なくとも匿名で哲学的言説を弄するのは貴族的でないとした理由をツイッター上で弁明した為、「左翼」との語彙の説明ではなかったが、部分的にIがNの名誉感情を害しようとしたのでなかったと分かったのでその点で卑怯とはいいがたい。「左翼」との指摘の方は謝罪が必要だったと思う。

7.哲学は対話術的なのではないか
さて一応ここまであげた中で最後の疑問になるが、私はプラトン、アリストテレスらがタレスをはじめの哲学者としている通説に反し、ソクラテスがはじめの代表的哲学者と考える理由をこの対話術にみいだそうとしている。いわゆる弁証法的、批判的思考である。
 私が根源を問う思考より、或る定立に反した考えをもつ思考がより哲学的だとする理由は、一般にはヘーゲルによる絶対精神の自己運動と解釈されるもの(Dialektik)を、ソクラテスの助産術が内的に含んでいたものとしているからだ。この意味で哲学は一人で思索や記述するにせよ、対話や討議といった他人とのやりとりをする、或いは大勢へ向け講義や演説するにせよ、基本的に同じ過程になる。タレスも勿論この意味では、なんらかの対話術を通じ万物の根源は水とする考え方に辿り着いていたのかもしれない。
 プラトンやアリストテレスの証言があるにせよ、具体的に対話術を助産術という形で実践していた証拠が残っているのはソクラテスの方だ。だから私は古代ギリシア史で最初の代表的哲学者は、タレスというよりソクラテスの方ではないかと思う。プラトンやアリストテレスは哲学を広義で使っているわけだから、教科書通り、文献学的に彼らがギリシアで最初の哲学者としてタレスを挙げている以上、「プラトンやアリストテレスらはタレスが最初の哲学者と考えていた」と記述できる。要は哲学という語彙に何の定義をあてているかによるわけだ。
 そこで、NとIのやりとりにもどる。なぜIがソクラテスの様な貴族性を哲学者に求めたか、それは論理的一貫性のない詭弁や、途中で議論を放棄する責任回避によって対話術そのものを不可能にする態度を戒めたからだろう。またNが議論・討論は苦手としているのは、そもそも対話術を拒否していることになる。カントは三批判書の中で「思想史(哲学史)」の生涯学習者と、哲学する者を区別しているが、総じて対話術の過程を経て展開していくのが思想史の流れともいえるから、Nはこの意味で学習の範囲内でも十分に思想史を理解していないと私は思う。要は哲学はメタ認知を使う否定媒介的作業なのである。
 では対話術的でない哲学がありうるかだが、これは同語反復になるにすぎないだろう。例えば或る正の定立にとって反証的でない定立があってもそれは正の定立の延長上にある、同系統の学説、即ち学派の一部にすぎないから。非論理的な哲学がありうるかでいえば、それは寧ろ詩と呼ぶ方がふさわしいだろう。そもそも哲学と詩の違いでいうと、或る言説が対話術的であればそれは語りとして必然的連関をもつので追跡可能である。だが真を穿ってはいるが直感的で非論理的な言説ならそれは詩として天才の産物であり、他人に追跡不可能である(より緻密には、小説、戯曲等を含む語りは散文的詩つまり「物語」、単なる「詩」は歌や歌詞と同様、韻文的詩のこととする)。だから哲学の語りが追跡可能なら、論理的一貫性をもつ必要がある。
 ここでいう論理とは、最も基本的には、
同一律 AはBである A→B
矛盾律 AかつBはありえない ¬(A∧B)
排中律 AかBのいずれかである A∨B
の3つの構成を、各々の否定と共に必然的に持つことである。具体的には
AはBである AはBでない
AかつB AかつBでない
AかB AかBでない
これらの語りの展開をもつ言説が特に哲学的と呼べるのは、これらは追跡不可能な或る個人の天才性に依拠しない(個人と一対一で紐付けられない)ので、単に言説だけをとりだして正しさを吟味できるからだ。つまり或る定立を、第三者に追跡可能な形で提示しているのが哲学の言説なわけだ。
 ここで語りと詩を分け、或る言説の論理的一貫性が哲学の前提となると私は述べた。IとNの議論が最終的に私にもたらした洞察というのは、プラトンの詩人追放論、カント『判断力批判』での芸術論たる語りと詩の定義、ソーカル事件での科学用語の衒学的使用などを超え、哲学は追跡可能な語りということだ。プラトンは詩の追跡不可能さをイデア論にすりかえていたに過ぎず、カントは言語芸術での語りを哲学から分離しすぎていたし、ソーカルは諧謔で或る雑誌のスノッブ的な散文詩たる性質を皮肉にした。つまり追跡可能な語り方(数学や全科学を含む哲学)と追跡不可能な語り方(物語)があるにすぎないのだ。
 厳密には、部分的に追跡可能さを含む場合がある追跡不可能な語り方が物語だから、文学用語でいう「信用ならない書き手(記憶が違っていたり記述が論理的一貫性を伴っていない等の揺らぎを含む語り手)」は、実は程度の問題でしかない。つまり学術論文の厳密さは揺らぎを主体的に排除する程度なのだ。プラトンら初期の書き手は、その種の追跡可能さを、全体として神話的記述を含む物語の中に埋め込んだ。そしてこの追跡可能さを断片化し、より厳密なものにしようとする試みが、我々の知っている科学という営みだ。特に公理系を元に、ユークリッド『原論』やニュートン『原理』を規範にした語り方だ。
 最後にNとIの議論の分析に戻るが、Nが議論を嫌うのはNが学習者的で必ずしも哲学的でない印といっても過言ではない。勿論、筋の悪い議論、詭弁を駆使した討論の為の討論を避けるのはソフィストの轍を踏まない知恵だが、単なる対話術に基づく追跡可能な命題の考察を怠るのはソクラテス以前の態度である。Nの或る動画でNは教授に提案した新解釈の研究テーマをこれは学問研究でない(文献学的でないという文脈)と評され、それならと博士課程に進むのをやめたと述べていた。孔子「述べて作らず」に近い教授だから恐らく立派な人物で、実際にはNの非対話術的思考癖を見抜いていたのではないかと推測される。Nはその教授の忠告を文献学は退屈だといった解釈で受け取っている様に私にはみえるのだが、私の観察が間違っていなければ、その教授がいいたかったのは私と類似で、追跡可能でない文献学はそもそも哲学史の研究でないという話ではないか。それは語りの芸術、つまり物語ではあるが、確かに学ではない。Nはのちユーチューバーとして思想史やサブカル等を下敷きにした物語で自己実現する結果になったから、文献学を深める方へ進まなかったのも塞翁が馬なのかもしれない。教授の慧眼というべきか。
 Iの方は、寧ろ哲学する事にかなり練達しているが、独学の余り語彙が独自で、一般に誤解を招き易い点がある。学術的に専門性が高い内容を語るには独自の語彙があり、一般的に広義の意味を含む言語とは区別される。ところでSNSで哲学を語る際、専門家と一般人へ同時に同じ意味を伝えようと日常語を使うと、解釈の余地が広すぎて誤解が多く生じすぎるわけだ。そもそも一般人は学に関心がないから両立は難しい。よって日常語を学術的意味を込めて使う時には意図的に多義性の揺らぎを生じさせながら使うか、さもなければ一般向けに学術の話を冗長に噛み砕いて説明するか、いずれかである。Nがやっているのは後者だから程度あれ視聴者数がIより多く、Iが無意識にやっているのは前者なので一般人に誤解を招き易い。
 私がいいたいのは、というか私に関心があるのは100%、専門家向けの話の中身だけなので、私は分かり易い説明など意味がないという立場である。ただユーチューブを収益目的で視聴回数や登録者稼ぎにやりたい条件があるから日常語を使う必要があるだけで、それなら妥協できるだけ徹底しないといけない。衒学や気取りと専門用語は何の関係もない。寧ろ専門家に分かり易い記述は、一見ありうる限り単純だが一般人には理解できない形式をもっている。凡そ誤解の余地すらないわけだ。ユーチューブを収益化するにはパイ(経済学用語)の少ない専門家向けのチャンネル運営はほぼ無理だろう。つまり収益の為には専門家からの寄付とか、関心のある人向けの動画の有料化とか、なんらかの視聴回数・登録者数の総量を稼ぐ競争以外の点で差異化しない限り、今のユーチューブチャンネルのしくみは、唯のVログが通俗学問の様な卸売り業者に競合しうる席ではない。根本的に考え方を変えるべきだろう。無論、私個人は、専門家の為に一般に理解不能な専門的な話をしてほしい。それが収益化できるかどうかは純粋学術にとってどうでもいいことでしかないからだ。