2019年1月29日

日本の特殊な匿名卑怯者文化の改善について

(ツイッター上でのネオ高等遊民@哲学youtuber氏糸崎公朗氏の間での顔出しやソクラテスをめぐるやりとり(やりとり1やりとり2やりとり3)に宛てて) 
私も議論は好きではない(学ぶ事が少ない上に論争を目的化している人がいる)ので、誰かとこの話について長い間話すつもりはない(もう終えたい)のですが、匿名の卑怯さは古典になっている作者が多数いても変わらないでしょう。卑怯ではない種類も、偉大な種類も、色々な匿名性があるとは思いますが。
 私はたまたまタイムラインにどっかから糸崎氏のツイートが流れてきて、ソクラテスの偉大さに感動した事が書かれていて、確かに匿名で悪行する2chねらー的日本人の正反対の態度だし、ニートが差別的扱いなのはそういうことがあるんだろうなと。侍も無為徒食だったが貴族的なので尊敬されていたのでね。
 ツイッターでの発言もコンテンツでしょう。糸崎さんは実名で顔出しなので命かかってるでしょう。そして誰のどのような発言であれどんな作品であれ誰も賞賛させる義務なんてないでしょう。なぜなら感動は鑑賞者の主観に依存しているからです。例えば三島の切腹は命がけですが私は呆れても感動しません。
 ここで問題になっているのはコンテンツの質ではなく、「匿名性」に伴う、個人特定の不可能さであって、それが貴族的ではないという指摘です。作品の気概や、主観的な感動をもちだすのは、おそらく論理のすり替えに該当します。
 ネオ氏も含め、匿名・筆名・ニックネームなどで自己表現をすることは私もありますし、誰もにあると思います。ネオ氏が今後もその筆名で活動される事もだれも非難しないでしょう。糸崎氏のその後のご発言からも、ここで問題とされているのはその様な個人攻撃とか、個人的係争では全然ないと思います。
 思うにソクラテスの時点では、哲学者という職名はなかったんじゃないですか。彼が始祖とされているでしょう。プラトン『ソクラテスの弁明』によると、ソクラテスは巫女に「ソクラテス以上の賢者はいない」といわれた。彼は自分が無知と知っているからだと考えた。彼のその後の生き方が哲学の始まりで。
(タレスが哲学の祖といわれていると参考書に書かれているのを再確認したが、彼は万物の根源を水と考え、雑多な万物を一つの根源的で本質的なもので説明しようとした最初の人というのがその理由になっている。これは自然哲学なので、今日でいう狭義の科学といえる。パルメニデスは理性のみが真理の判断の基準と考えていたので形而上学的な思考の萌芽ではあったと思う。しかし彼は形而下のもの、物理的なものに思考を限局したので、最初の物理学者というべきだ。以上も以下も自分の意見だが、その後、教科書的にはプロタゴラスという相対主義の思想家やゴルギアスという懐疑論のソフィストらが現れたが、無知の知(未知の自覚)の論理によって徳という純粋に形而上学的・後自然的な概念を最初にみいだしたのはソクラテスだと私は考える。このため、狭義の哲学の始祖は彼である。
 私の持っている参考書を記述した藤田正勝氏と私の意見は、言葉の詳細な定義が異なるため少し違うが、少なくとも私の中で、次のことが結論だ。
 知られている限りタレスは自然哲学、今日の自然科学の始祖であり、パルメニデスは物理学の始祖、プロタゴラスやゴルギアスらソフィストは形而上学の端緒であり、ソクラテスは哲学の始祖である。ここでソクラテスにおける哲学とは、自然学の一切を要素として含みながらも、それを超えて徳を求める純粋に形而上学的なもの、すなわち倫理哲学である)
 匿名や偽名、その他どのような名義であれ、私は糸崎氏が後に言い直されたのと同じく、その人の自由であって他人には指定できないし、言論その他の活動をする上でも、いずれでもよいと思いますよ。書籍その他の著作物の信頼性についても同じです。ネオ氏も当然何も非難される事はないと思います。
 ただ、ここで問題になっている(当初なっていたが両氏が素通りしてしまいそうだったので私が再び持ち上げた)のは、ある種の匿名性に伴う卑怯さです。全ての匿名性が卑怯なのではありません。匿名で寄付や慈善活動をしたり、偉大な著作をするのは立派な匿名性です。匿名で悪事するタイプの卑怯さです。
 両氏はそうではないのかもしれませんが、私は匿名で卑怯な悪行三昧をする日本人達を、インターネットの長い歴史の中で何度もみてきて、その人達の陰険で地獄に堕ちるべき卑賤さというのを重々知っています。ネオ氏はそういう人物ではないでしょう。寧ろ大いに賞賛されうる匿名者の系譜に入りましょう。
 ソクラテスが誇り高く生きたのは、職業名によるプライドでは全然なく、単に彼が高潔な人物だったからだろうと私は思います。ただ自由市民が奴隷に対してある種のプライドを持っていただろうことは、これは我々は同じ感情を得るのは難しいにせよ、当時のプラトンらの記述では確かそうですね。
 100%悪意からの匿名性、この世で想像できる限り最も卑怯、といった類の匿名性は、確かにあります。しかも日本人の一定の人達が、サイコパスでもなく、因果応報で罰されないだろうという憶測の元、匿名で卑怯な振る舞いをしています。私はこれは日本国で最大の汚点であり、重大な問題だと思います。
 自由人が貴族として尊敬されるためには誇り高い精神、分けても諸々の知識の中でも最も総合的な、後自然学の最後にして最高の知恵であるところの倫理が必要です。ソクラテスが刑死を選んだのはその様な自己の良心へ絶対に従う為であり、彼は逃げられたのに逃げなかったんですね。武士が切腹するように。
「匿名YouTuberが卑怯であるか否か?」これについて考えるのは私の仕事ではないと思いますが、というのもつまらぬ論争や、他人との係争に巻き込まれ時を浪費したくないからですが、必要があるなら今後皆さんが考えていただきたい。実名で卑怯な人も匿名で高潔な人もいます。ネオ氏は後者でしょう。
 哲学界は一般には実名顔出し、色々な思想家が出自を明らかにした上で議論してきているので、どちらかといえば匿名性が特殊だろうと思います。したがって実名顔出しの哲学に誰も見向きもしないということは全然ないですよ。動画投稿のハードルについては、私も恥ずかしがり屋なので、意味はわかります。
 なお私はYouTube上に何らかの哲学を語る動画を投稿するにあたって実名顔出しを義務づけるべきだとは全然思っていません。むしろ匿名であれ顔なしであれ誰がなにを言っていようがどうでもいいと思っています。ただ言論含む自由には責任を伴うというのが法的な真実であり、匿名の悪事は有害だと思う。
 ネオ氏の匿名・筆名について私はどうとも思っていません。ネオ氏のことではなく、匿名性に含まれる問題点は、責任追及が不可能な立場からあらゆる悪意ある振る舞いをする、自由の乱用なのです。例えば、ツイッター匿名アカウントが違法な誹謗をくり返している様なことを指しています。
 名誉毀損罪や侮辱罪という刑法は、個人特定が可能な条件であるほど抑止力があります。現行犯逮捕ができる状況で、実名+顔出しで犯行すればすぐに捕まります。匿名+顔隠しはこれらの犯罪をしても逮捕までに時間がかかる為、しばしばインターネット上の犯罪者らの責任回避に使われているんですね。
 著作物の発表に実名や顔出しを義務づける法律はありません。ネオ氏が匿名・筆名なのでソクラテスに比べて卑怯かどうか。私はネオ氏について詳しくないので判断はつきません。私が問題視し、世界から一刻も早く、できるだけ除去したいのは匿名を隠れ蓑に蛮行を続ける一部の日本人達のその悪癖です。
 過去には色々な思想家が、筆名や匿名で様々な著書をしてきました。ある時代には言論の自由といった基本的人権そのものもなく、絶対王政や古い迷信が支配していて、従来と違う意見(しかもより善く正しい意見)を表明しただけで死刑になる事もありました。例えばこれと匿名の悪人を混同はできません。
 ソクラテスは糸崎氏がご指摘されていたよう、彼の良心の声に従う高潔さにおいて匿名・筆名などを使って責任回避や照れ隠ししていたわけではなく、寧ろ進んで矢面に立って、ソフィストの詭弁が跋扈するアテナイの知的腐敗と戦い、死刑になった。多分ですが、ネオ氏は彼を模範にはしていないのでしょう。
 日本国の外では、ネット上であれ、フェイスブックのよう実名で責任を進んで引き受けてやり取りする方が普通であり、日本国内のネット文化が2ch(5ch)という匿名掲示板の影響を受けてなのでしょうが、特殊化している。それもおもに悪い方に特殊化していて、匿名で悪事する。卑怯者の文化なのです。
 かつて武士という貴族がいた時代、ソクラテスのよう自ら名乗って戦ったり、交流するという文化が日本国内でも散見されたこともありました。「貴様何者だ、名を名乗れ」などと時代劇でもいっていますよね。これは平成日本における2ch(5ch)的卑怯者文化の真逆である、というのがここでの論点です。
 私は匿名卑怯者文化をまったく変えないと、それが伝統化してしまって、被害を受ける後世の日本人は平成に生きていた人達を怨む結果になると思います。このため、高潔な自由人たる人であれば、匿名を選ぶには十分な理由が必要です。例えばねたまれないため隠れて善行をしたい、というようなね。
 私はネオ氏については殆ど知らなくて、つい先日たまたまライムラインで見かけただけでまだ1つか2つしか動画もみておらずブログも少し見てみただけなので、今のところ匿名卑怯者文化の人物か、それ以外の何者かまったく判断できません。匿名・筆名でも高潔な人がいるでしょうからね。
 言論の自由が保障されている現代日本の知的空間で、敢えて匿名を使う理由は私にはみあたらないし、追及されるといささか都合の悪い表現活動をする時(落書きという違法行為をするバンクシーとか、性表現を扱う同人誌作家)くらいしか思いつかない。が現にネオ氏がいるから他にも理由はあるんでしょう。
 もし高潔な匿名者がいたとしても、匿名卑怯者文化を徹底的に改善する必要がある、二度と匿名加害者による犯罪を起こしてはならないというのはその被害者達にとって大きな課題なので、匿名での言論著作活動全般がその種の匿名卑怯者文化を増長させる側面があると指摘するのは決して無益ではないだろう。