2019年6月28日

政商分離論

堀江氏の「年金泥棒」発言と、ビルゲイツ氏の「金持ちに課税すべき」発言が対比され、日本の富裕層一般に貴族の義務がない、という批評が現れている。結局そこは日本の成金は貴族ではなく町人倫理の延長で、現世利益を享受したいという発想しかない。米独で寄付するのは清教徒思想の名残なのでしょ。イギリスでいえば紳士、日本でいえば皇族・公家・武家みたいなのが封建貴族だったわけで、彼らは特権が保障されていたから生活費に一喜一憂しなくて済んだ。貴族の義務が発揮できたのは特権の免罪符だったからで、日本商人は一度もその種の特権を持てた試しがないんだから貴族になりえない。
 そもそも貴族が営利から遠ざけられていたのは、政治と商業の癒着を防ぐ効果を伴っていた。明治期に薩長土肥らの露骨な政商行為が正当化されてから、現在まで日本の伝統的貴族にみられた賎貨思想は放棄されている。堀江氏も福岡出身だけど、その種の西軍的な政商の考えをそのまま踏襲してるだけと思う。
「私利」と「自己犠牲」は矛盾するわけで、日本商人の信仰の中に営利の正当化がある以上、自己犠牲を前提とする貴族の義務を期待する方が間違ってる気がする。日本商人が余りに寄付したがらないのは貴族の義務以前に、現世の享楽を社会貢献より優先させてきた町人倫理そのものの欠点だと思うが。

 税の控除を目的にした寄付って仮言命法的な条件つきの善行に過ぎないし、この意味でふるさと納税も本来の喜捨ではない。町人倫理に資本主義を継ぎ足した日本商人は清教徒思想なんて学ぶ気はないだろうし、要するに他国より本質的にけちな商業文化なわけで、日本の成金が未だに貴族になれない理由だな。

 東京都民は成金をセレブとか呼んでやたら高貴っぽくみせかけようとしてたけど、少なくとも身近に水戸家級の本物がいた茨城文化圏からすると、実にちんけな虚構でしかなくて一回も騙されたことないんだが。都内皇族もこの点ではなんら模範にならないしね。
 孔子、釈迦、イエス、ムハンムド、この辺りの聖人らがなぜ商人に厳しくて喜捨を命じてたかといえば、そもそも営利と利他は矛盾するからでしょう。清教徒は両者を資本主義と結合し正当化したが、その目的は社会貢献とし、寄付も文化の一部にした。日本商人は武士道を捨て政商を崇め拝金主義に染まった。嘗ては水戸家みたいに、大名が特権階級として貴族の義務を自負しつつ統治していた。まあ当時も二流以下の大名は私利を貪り堕落してたのかもしれないが。少なくとも水戸家は自ら質素を旨としつつ愛民的な殖産興業の施政をしていたわけで、私利が目当ての財閥政商とは目指すところが全然違った様に思う。
 アメリカ人有権者の多数派は、トランプ氏みたいな商人を大統領にし、私利と公益を混同させる露骨な金権政治で孤立主義に回帰しようとしてるが、彼も貴族的ではないでしょ。勿論、民衆を犠牲にゴルフで遊ぶ安倍首相も貴族的ではないし。彼らの成金根性が政界にとって災厄なのは間違いないと思う。
1.日本商人は自主的に喜捨すべきで、それは税控除とか見返りを目的とした不純な私利追求の動機からなされるべきではない
2.政界に金権政治に繋がる成金根性や拝金主義をはびこらせるべきではない
3.行政は税収調整に集中し、違法行為を除き民事に介入せず、賄賂や政商を遠ざける必要がある