利己的な人、性悪に知識や金銭などの道具を与えるのは殺人鬼に核兵器を渡すのと本質的になんの違いもない。実際彼らは知識を他人を搾取したり差別する目的で「学歴」と矮小化しているし、金銭に至っては他人を奴隷化する方法としか見ていない。資本主義は彼らにとって新たな奴隷制で、民主主義は衆愚に応じて悪徳を欲しい侭にする独裁の機構でしかない。
我々は倫理より高いなんらかの社会的統制の原理をもっていないし、それは今後も未来永劫同じだろう。道具を悪用する人は倫理という肝心の目的が分かっていないのだから、この点で性悪が及ぼす諸々の公害を統制しなければならないのは絶対的な真実なのだ。
この為の共通規範を法としたのが法家であり、倫理そのものに求めたのが儒家だった。法はそれ以下の悪行をすれば罰される最低限度規範でしかなく、倫理は模範に値する当為にまつわる最高限度規範である。つまり倫理の理解力がない性悪に向け必要なのは少なくとも法律だ。一方で性善的な人、利他的な人にとっては倫理が語られるべきことになる。