「働かざる者食うべからず」という労働信仰は、皇室の様な特権階級や、大資本家にとって好都合な洗脳の教義であり、これを正義と思い込んでいる労働者集団の中では労苦や努力といった肉体的苦痛を伴う仕事観が、奴隷らしさの証拠として相互におしつけあう義務にさえなっている。しかし当然だが資本家を中心とした資本主義的社会では、この真逆の類型、「働いたら負け」の号令を忠実に実行している人々が最も自由か、なおかつしばしば富裕に暮らす。
労働者はマルクスがいうとおり労働力を切り売りしている人々だから、自ら自由を手放すのをよしとする。労働信仰は半ば反資本主義的なもの、いわば資本主義の中に非効率部門として含まれる労働主義だが、労働者一般はこの考え方が資本主義の中で家畜的なものなのが分からないからその状態を合理化している。つまり勤労所得と不労所得(投資収益を知的労働とみなせば金融所得)の比率は、その人の働きの抽象度に応じて生じるのだが、単純に理想化すると、実際の資本格差は経済的知性に比例している。
資本家からみれば、所得格差が生じるのはこの知性に差がある限り当然となるのであり、共産主義者の理論的破綻がある点も同じである。無知又は無能な人々が起業したら、商才ある人と同じ結果にならない。資本主義の合理性の核心は、より商才のある人の元により大きな資本を集めれば利益追求の手順に従って、効率よくそれを生かすだろうという配分の利にある。労働者一般が労働信仰をもつのは、経営者や事業主、自由業者、資本家(投資家)といった職業的役割を果たす為には不十分すぎる商才しかない自らの無能さにとっての適応であり、彼らがほぼ同質の仲間にとどまりたがるのはこの労働主義の宗教が彼らの生態にとって好都合だからだ。たとえ彼らの境遇がいかに奴隷的でも彼らは労働信仰をほぼ絶対的教義と思い込むのが快適だからそうしているのであり、反対に不労所得とみなせるだけ効率のいいあらゆる仕事、並びに所得と関係のない仕事(趣味やボランティア、先駆的仕事、虚業、NPOなど)を軽蔑さえしている。
我々が労働信仰の持ち主を愚劣に過ぎないとみなしたとしても、彼らはこの信仰を正義と混同しているのだから、被雇用者の立場で、できるだけ自由を自己放棄しながら一生を過ごすことが彼らの最大の幸せなのは変わらないであろう。