証拠が二次資料に基づいていることを信憑性の一つとする考え方は、科学主義(自然科学での手法を他分野に適用しようとする考え方)だと思う。一次資料、つまり統計的に信頼性のある経験や実験に基づいていないと本来の経験論の立場からの実証にならない。この点で二次資料による科学主義も誤り易い。
ドリー氏がここで真に指摘したい点(百田尚樹『日本国紀』に二次資料の参考先が添付されていなくても平気な人々は、事実に関わらず自分の信じたいことを信じるという点で、弁護士大量懲戒請求事件(反朝鮮的なネットの風説を鵜呑みにした人々が、弁護士へ不当な懲戒請求958件を送った事件)の加害者らと相似、という言説)は、反証主義(仮定した命題を否定する証拠を集め、その質によって信憑性を問う議論の仕方)の欠如なのだろうけど、この言説は二次資料への信頼が含まれている。二次資料のみを根拠とするウィキペディアは虚偽に満ちていて、そもそもそれらの資料が経験的でないことがある。
ポスト真実についての議論もそうだけど、確証バイアスを持ち易い(非反証的)というのは、右翼一般がそうであると似た或る知性の低さと関係しているかもしれない(Gordon Hodsonの2012年の論文)。実際この右翼低知能説もだが、過度の一般化という脳の傾向だと思う。
裏を返せば、右翼一般の過度の一般化に耽ったり、確証バイアスを信じ易い、自己中心性の高い脳が、天皇家の自己神格化の傾向に見られるよう政治的に有効な場面が多かったから生き残っているのではないか? 愛国心や自民族中心主義も自集団ひいきの幻想を、共同体への洗脳として広める手段なのでは? ミーム進化論の様な観点からいうと、右翼的脳は、自分に有利で他人に不利な証拠を確証バイアスから集めてきて、それを側近政治的に周辺のイエスマンにばらまき、自己または偶像化した天皇などの権威を教祖とする洗脳の体系を求めている。この脳の傾向が「国」という共同幻想を作り上げたのでしょう。「国」が何らかの自集団ひいき幻想の共同体である、というのが事の核心で、これは基本的に虚構なのだが、或る知性が高い人はその虚構が馬鹿らしくなるので、左派と呼ばれるより普遍的な政治思想を持ち易くなる。
結局、生まれつきの脳の質と関係し右翼・左翼その他の政治的志向をもつ人々が出てくるので、自らの政治思想を疑わず信じる(それを偏見や差別により補完したがる)という意味で、脳の一般化傾向の犠牲者でもある政治的人類の思考を客観的に研究すべきです。