2019年3月9日

個性主義と職業の希少価値について

アリストテレスが観想のくらしを理想視していたのは、ラカンでいう象徴界にできるだけ接近しその中で生きるのをよしとしていたことになる。つまり言葉を操る動物として言語知能の徹底的な発達に殉じるのが人類の特長と彼は考えたのだろう。
 彼の考えが正しければ自然や社会といった現実に関係する科学や、現実と象徴の間で想像に関わる文芸や詩劇は、単なる象徴界のできごとでしかない後自然学より観想のくらしにふさわしくないことになる。そして純粋に哲学的な生活は言語を操る範囲から出ない時間を意味することになるだろう。
 では人工知能は人類よりこの作業効率で遥かに優るのではないか。一体、本当にアリストテレスの幸福主義は人類の理想だったのか。
 彼は哲学の快楽に耽り、現実を省みなくなる嗜癖にお墨付きを与えた訳で、この意味で彼の理想は哲学的嗜癖をもつ学者にとっての理想、と限定された幸福だった。人は彼自身の卓越性に従うくらしが幸福、ともアリストテレスは『二コマコス倫理学』で言っているから、アリストテレスの幸福主義といわれるものは、実態的には哲学者の幸福を理想化したものでしかないといえる。つまり彼は自文化中心主義的な自己中心性に陥っていたのであり、単なる発話による言語以外にも人類の展開は複数あり、それらも単なる変異としてどうとでも変わり得るという観点を持たなかった。古代ギリシアの生物学は進化論以前の知識水準だったから止むを得ないだろうが。
 人はそれぞれ異なる特長、いわゆる個性を持つから、その個性の伸長を最大限行うのが正しい嗜癖や習性の形成につながるし、結果、功利主義の面でその個性から社会が貢献されるほど生物全体の幸福の総量も増える。アリストテレスの幸福主義が修正されるなら、自分はそれを個性主義といいかえられると思う。観想以外のくらしも或る個性にとってふさわしい嗜癖になるのだし、嗜癖の集まりとしての習性はその個性を元に形成される。それぞれの嗜癖や習性の間に上下はなく、しいていえば評価する他者にとっての価値があるだけだ。勿論、質的功利主義のよう快楽に質を認める立場からみれば、より高等な嗜癖や習性があり、それはより理性的であったり本能を婉曲化しているという意味で上品なものとみなされるかもしれない。質的功利主義の高質な幸福の極点に仏教の空観の様な単なる全欲望の否定という立場があり、それを超えて快楽はなく無欲(nirvana)なのだから、快楽に質的差を認める考えは単に、間接性への選好なのだ。マシュマロテストで子供が欲望の対象を思い出さない様にしたのと同じく、質の高い快楽は一般化すれば本能を主とした欲望充足の間接度ということになる。すなわち、個性主義の中でも上品、下品、中品などは或る個性について比較して見分けられるが、そこでいう品性は欲望充足を空観までの間で遅延させたり否定したり、別のより間接的な仕方で満たしたりという嗜癖や習性についていえることで、結局はそれら自体が個性に還元される要素である。
 職業に貴賎なし、という俗諺は恐らく貴族から卑しめられていた町人の間で合理化の為に唱えられた文句だったのだろうが、それは彼ら町人の卑近な生業が世人の欲望に直接的であるほど自己の職業的尊厳を守るため必要な幸福論だった筈だ。職業差別が人権から禁じられた今日でも、個性の価値づけとして同様の観点が残っている。本能を直接満たす生業であるほど卑しい生業と思われ易いのは、逆に欲望に対し間接的な職業であるほど世人の需要自体が少ないので、結局は心理的な補償なのだ。尊い仕事はしばしば自己犠牲的ですらあり、需要自体がないこともある。だからその種の貴族的な虚業に高い品性という世人からの尊敬の念や、名誉という金銭以外での補償をつけない限り、世間は欲深な卑しい実業で当たり前のよう大金をせしめている人との比較で、どうしても後者にとって有利過ぎる社会を怨まざるを得なくなる。これが職業間に尊敬度がある理由であり、最も空観に近い仏法僧がなんの実益もない唯の乞食でありながら最高の敬意を逆説的に持たれてきたかの仕組みであり、裏を返せば性産業や高利貸しなど本能や実益に近く儲けの上がり易い仕事ほど軽蔑され易い原因だ。個性主義は個性の質的差を相対的に認めるが、実質的には下品とみなされる個性は何らかの意味で世間に役立っており、有害な個性さえ基本的に反面教師として容認した方が全体の幸福の総量も増えるのだ。よってこの俗諺は職業差別は人権の面で禁止されているが、その実は本能や実益との遠近性で尊敬度が決まり、一般に人は本能で動き実利に弱いので、「職業は希少なほど貴ばれる」といいかえられる。