東京五輪は強欲の象徴だから、日本人の潜在的な道徳観に抵触して反感を買っている。安倍政権の皇族を使った賄賂招致も当然その強欲の一部を形成しているし、東京の会社である日本原電の東海第二へ東電が大金を回し、仮設住宅を無視しながら豪勢な選手村を都内に作るのも全て「東京人の強欲」の象徴だ。東京人の強欲を世界中に知らしめる、という悪徳の粋だからこそ、ザハ・ハディット設計の競技場も、隈研吾設計の「東京人の金儲け」により近い物に無理やり変更されてしまった。
東京人の驕りが極地に達している現象である限り、恐らくそれにふさわしい末路を迎える筈だ。多分、道徳的な反動がくる。与沢翼氏は2016/5/19のブログ「時事問題」で、東京五輪は日本にとって100%必要だからなんとしても開催して欲しい、と述べている。これは経済という点から物事を見ているからで、公共道徳という点からみると、原発で国民を犠牲に賄賂で金を貪ろうという強欲の象徴になる。問題は「東京都民」という総体は、強欲を悪徳と思っておらず、資本主義や富国強兵イデオロギーのもと全面的に肯定しているということだ。賄賂だろうと原発公害だろうと、どんな邪悪だろうとたとえ地獄におちようと、金が儲かりさえすればOKと考える拝金主義が東京を動かしている唯一無二の信念だ。勿論、拝金主義の考え方は世界を余りに単純化しすぎていて、金が幾ら儲かろうと人生が不幸で、他人を殺めては意味がない。だから東京五輪は古典的な悪徳の一つである強欲という自滅の原理を、国内外へ派手に示す役割しかないのだ。結果は金権政治による強烈な腐敗である。
人類は幾ら資本主義を追求しても結局、強欲という悪徳を蔑むのは変わらない。アリストテレスにいわせればけち(吝嗇)と強欲という両悪徳の中庸が節倹や質素だとなる。バフェットやビル・ゲイツは慈善事業に資産の過半を使う結果になった。無限の富を独占しても最後に、真の尊敬を得られなかったのだ。イエスは「金持ちが救われるのはラクダが針の穴を通るより難しい」といった。聖人全般は質素が有徳と知っていたので大富豪ではなく清貧に生きていた。ここに東京の反面教師性がある。幸福な生にとって重要なのは無限の強欲ではない。必要十分な富を超えては自己実現や無償奉仕に生きるべきなのだ。
東京五輪の様な、運動競技に偽装した強欲な金儲けのイベントを開く、という発想自体が醜悪だ。勿論、運動競技はそれ自体がすばらしいことだから、公正な競技精神としてルールを遵守し競い合い、全力で闘った後は敗者をいたわり勝者を称え合うスポーツマンシップの啓蒙にするというのが本来の筋なのだ。
私の県ではことし国体が控えているけど、東京五輪と違って金儲け的な色彩は余りない様に見える。知事がはじめてEスポーツを取り込むつもりらしいから企業がのりだしてくるかもしれない。しかし競技と商売、政治を混同する愚行は東京だけで十分だ。商売や政治それ自体なら幾らでも自由にやればいいが。