2019年3月29日

下衆の考えは再現できず学を修められるに過ぎない

下衆の考えは永久にわからないしわかる必要もない。
 自分は全知を目指していたので、海千山千と、貴賎いずれの人々についても完全に理解しようと努力していたが、少なくとも卑しい側の考えは永久に把握しきれないことがわかった。正解は少ないが誤解は千差万別で体系だっていないので学習できない。孔子が己の人を知らざるを憂う、と言う時の人とは、貴い人のことだ。ここでいう尊さは道徳性の意味で、世俗の身分の意味ではない。
 私は或る作家志望者が芸事そっちのけで発情している相手がどういう人物なのか見極める為、その男に質問してみた所、「俺のスペックの方が上だから発情したんだろ」と言った。この言葉の意味は、半年くらい経った今でも全く意味がわからない。恐らく機械か何かと人間を取り違えているのだろう。下衆の考えはこの様に、当人に特有のなんらかの誤解が積み重なったもので、外部の人には全くうかがい知れないものなのである。私は下衆が無数にこの様な偏見をもっているのを見たが、そのどれも、分析すればするほど意味不明なものだった。つまり、彼らはでたらめ、アトランダムに誤解をしているのだ。
 一方、なんらかの学が論理的に体系だっている場合、我々はその一々の経路について詳細まで問いつつ既習できる。ユークリッド『原論』が最も起源的な公理系の模範といわれているが、確かに幾何学の証明の様な体系性があれば、誰でもその知識を再習得できる。つまり、最も単純な数字や文字から、知識の最高段階としての道徳、わけても最高善に至るまで、我々が全世界の情報から学び取るべきものは、この種の体系的な知識である。特に再習得できる論理的構造をもっていればその再現性も確保できるので、学として後生が辿れる。
 芸術はしばしば非再現的なものだが、美術史は論理的体系性をもっている。したがって歴史化された重要な芸術は、必然の論理的進歩の元にある。我々が学習できるのはこの文脈と呼ばれる秩序だ。再現的に芸事自体を倣うより、文脈について熟知するのが芸術を学として修める手段である。