2019年3月28日

作家志望者応援トラウマ

私は昨日と今日で或る人のツイッターを全部読み直して、それからずっと吐き気が止まらない。なぜなのか。これから自分で分析する。(誰も興味ないと思うが)
 私は或る人が芸術家になりたい、といっているので応援しようとしていた。当然、私はアートファンだからどんな作品でも面白ければ全部好むので、その人の作品も見てみたいと思った。これが第一の自分の動機だ。或る作家志望者を純粋に、素直に応援したいという親心というか戦友心というか。それ以後、その人物を見守り、励まし、応援し、時に忠告し、頼みごとを手伝い、助言し、問題が起きたら助けに行き、尊重し、相手の人生の諸課題に自分にできるだけのことは試みようとしたし、実際にしてきていた。勿論これらは自分の勝手なので、相手が迷惑だと思うならしていない。中庸さの範囲でだ。
 しかし、その人物は商人になるや次第に変化していき、やがて元々もっていた通俗的な性格を強めていって、最後には私に名誉毀損をするまでになった。ここまでは作家志望者が挫折する過程としてよくあることかもしれない。実は私の身近にこういうのがいて、反省させるべく説教してやったこともある。
 才能のない作家志望者は目先の金だか世間体だかのため一般労働者になり、やがて芸術家の道を辿っている嘗ての同志を合理化のため侮辱しはじめたりするのがいる。美大卒の同級生とかいる人で、ろくでもないのがいたら、少しわかるのではないか。或いは当人がそうかもしれない。挫折の正当化は見苦しい。目先の金だか世間体だか、通俗的な家庭だか普通の人生だか、そういう商人社会の通念を芸術界にも無理やりあてはめて、カネにならない作品を必死に作ってるなんて無職と一緒だからギャハハとか、あんなの犯罪者の前座じゃんとか言い出す。昔は険しい山道を目前に登頂するぜ、私が神よといっていたのに。
 別に自分は挫折した人を蔑んでいない。あ、そうですか、というだけだ。なぜなら自分は他人の為に山登りしてんじゃなく、自分が頂点の景色をみたいのだ。他人など気にしている場合ではない。もっとカネ貯めるだか精神を鍛えてから登りなおせば他人が天辺とることもあるし、それもうらまない。自由だ。それどころか、芸術に限っては成果が作品以外によっては全くはかれないから、ゴミみたいな作品を量産して商業的には大成功したはいいが死の瞬間忘れられ一生を無駄にすることもあれば、誰からも精神病者と思われていたのに今は美術館の一等席に鎮座している後世のいう巨匠の作品がたくさんあるわけだ。結局、芸術界が高尚だ、と思われているのなら根源的には、ゴッホとか宮沢賢治みたいな、生前に利益を得ず死後の全人類の為に素晴らしい作品を残していた巨匠と呼ばれる人々がいたからかもしれないほどだ。ゴッホは偽者だ、発狂で過剰評価みたいに村上隆も言っていたけど、それはまあ置いておく。(この点は議論の余地があるので後で詳しく分析し直す。確かに作家の生き方を作品に還元評価する、というのは、作品自体を評価する、という芸術至上主義的な考えからみると邪道だろう。私もゴッホの全作品がそんなに素晴らしいとは思ってない。『夜のカフェテラス』とか少数の作品しかいいと思わない)
 要するに、同時代に理解されない、しかし飛躍的進歩という意味で筋が通ってはいるから後世の目にはその時代に生み出された全精神の中でも最高級の達成だった、と思われる例が歴史上に一杯あったのだ。それが高尚な分野なんですね? といわれる可能性が残っている唯一の根拠ではないか。前衛性。ここからいうと、挫折した人、最初は高尚な芸術を志していたのに途中で俗世に拘泥し、その理解されなさとかカネにならなさとか世間からの迫害とか、色々な不条理諸共俺が進歩の先端だぜ、といえる勇気も胆力もないわけだ。うん。そうだと思う。要するに勇気が足りないのに、死を恐れ世俗化してしまう。芸術的勇気、という意味でいえば、自分は世界一を取る自信があったからこの道を歩んできた。この自信がただの無謀な若者の誇大妄想だったわけではないのはきっと後世がわかってくれると信じ、全力で最先端の先を一人で嵐や猛吹雪や泥沼や毒草の林の中でさまよい、とにかく今日も前に進もうとしている。もう後ろを振り返っても誰もいないから、世俗に拘泥するとかいう感覚自体が全くないのだが、その大都会というかソドムみたいな場所にいつまでも戯け、やれ私は3Kイケメンとオフ会だの温泉旅行で交尾予定だのシングルマザーなるとかいわれても、「作家志望って嘘だったの?」となるに決まっている。
 それで私は物凄く傷ついて、ああ私がこれまで懇切丁寧にこの遥かな大地を自由に渉猟しようと言っていたあの同志というのは全くの勘違いで、自分が俗物の本性を見抜けなかったバカだったのだな、と気づきはしたが、それでも体の方がいうことを聞かずずっと吐き気が止まらないわけだ。裏切られただけで。
 私は高校の時から村上春樹の小説は全部読んだ中で(文体は読みやすいかもしれないが内容殆どが下品だから勧めないが)、『スプートニクの恋人』という作品が一番好きだった。2chで色々あって、春樹は僕にはいわくつきだから今も吐き気せず読めるかはわからないけど。なぜなら、そこにはプラトニックラブが描かれていたからだ。春樹小説は全体として下衆だが、そしてこの作品もその低俗な下品さは変わらないのだが、唯一、ヒロインのレズビアンの女性(名前忘れた)がずっと処女で主人公とも安直に交尾しないところが違っている。それは貞操の為ではないのだが。ドリー『村上春樹いじり』はこれまで出た批評の中は唯一、春樹小説のチャラ男性、エセ都会人ぶり、軽薄さを叩き潰そうという試みが行われた記念碑的なものだと思うけど、この『スプートニクの恋人』も主人公の下賎な遊び人ぶりは健在で、ただヒロインをプラトニックに扱う点だけが「まだまし」なのだ。で、何がいいたいかというと、この小説のヒロインも作家志望だが小説が書けない。で主人公はその子が好きだが、ヒロインは失踪する。この間、別の女と不倫する下衆だが不倫がばれ自滅する。でその沈鬱の中で本当はヒロインを好きなのを思い出す。まどろみの中ヒロインから電話がかかってきて月を見る。主人公は自分と同じ様にこの作家志望者の大学の同期だかを励まそうとしている。で相手はレズなので性関係にならない。精神的な交流で終わっている。今流行のLGBT絡みの恋愛話なわけだ。自分は貞操を重んじるという嘗ての美徳と偶然、レズへの主人公の片思いが一致してるのが面白いと思ったわけだ。
 私がこの作家志望者に対して単なる純粋な芸術への励まし以外に、幾らかの好意をもっていたからこそ、これほど傷つくのかもしれない、と自分は今いいたいのだろうか。多分違う。その人が素晴らしい作品を書ければ自分などどうでもいいのだから。芸術作品は個々人を超えたものだ。そのことがいいたい。総じて、自分が大きく間違えていたのは、この作家志望者の資質を見抜けなかったことにある。当人の表面上の言葉と、その人物のサイコパシーを混同し、単に嘘をついている特別ぶりたい俗物なだけ、という本性を最初から洞察しきれなかった。それで数年間も気苦労を重ねた。きのう、完璧に把握できた。
 事は、偽名サイトで相手が素性を明かしていない上であったことだから、恐らく私がどう思ってその人物をみていたか、相手は全く知らないというか気にも留めていないと思う。私に後ろ足で砂をかけ全てを忘れると思うが、私は物凄く傷ついたので作家志望者応援トラウマになった。
 すみれだった。ヒロインの名前。